宝華宮の朝。
穏やかな日差しが欄干越しに差し込み、帳の中に静かな光を落としていた。
その中で、煌星は鏡台の前に座り、柳蘭の整える髪に身を委ねていた。
「宴は三日後です」
「……そうだね」
鏡に映る自分の姿は、もはや"蘇貴妃"として違和感がない。
紅を引き、髪を高く結い上げれば、それだけで"後宮の華"と称されてもおかしくないほど――見た目だけは。
「うわぁ……本当に、貴妃様にしか見えない……」
背後で柳香が呟き、じっと見つめてくる視線が熱い。
煌星は苦笑しつつ、そっと溜息を吐いた。
「やっぱり、貴妃やるの向いてたのかな、僕……」
「ご自覚があるなら結構なことです」
柳蘭が淡々と返す。
それに対して柳香が「うぅ、褒めてるのか貶してるのか分からないです……!」と呻いていたが、煌星は返す気力もなかった。
――璃月をやって、もう何日か経つしね。
貴妃として振る舞うのも、最初のような緊張はない。
けれどそれは、慣れたというよりも「腹を括った」結果だと、自分でも分かっていた。
「さて……そろそろ時間かな」
煌星が立ち上がると、ちょうどそのタイミングで扉が開いた。
現れたのは景翊。目を細め、少し芝居がかった口調で言う。
「おや、これはまた……今日の貴妃様は格別に艶やかだ」
「いちいち言わなくていいよ……!」
即座に返すも、軽く紅潮した頬は隠しきれない。
それを見て、景翊はくすりと笑った。
「まさか、見惚れるとはな」
「まだ言う……?」
そう言いつつも、煌星は姿勢を正し、衣の裾を整える。
軽く手を前に重ねて立てば、それだけで絵になるのが悔しい。
柳香は感動に震えていたし、柳蘭すら「申し分ございません」と認めるほどだ。
「何せ皇帝様の唯一の貴妃でご寵愛を頂く番。これくらい当然だよ」
「うんうん、貴妃様、カッコいいです!」
柳香が拍手しようとしたのを、柳蘭が無言で止めた。
煌星はわずかに笑い、その視線を景翊へと向ける。
「で……何か指示でもあるの?“陛下”」
「いや、ただ見に来ただけだ」
あっけらかんと返され、思わず眉がぴくりと動く。
「わざわざからかいに来たってこと?」
「勘ぐるなよ。その姿が見たかっただけだ。俺の“妃”がどれだけ堂に入ったかをね」
「……だから、それを言うなって」
呻くように顔を覆う煌星の姿に、柳香が「わぁぁ、また煽られてる……」と後ろで悲鳴を上げていた。
けれど、煌星はもう簡単には取り乱さない。
顔は少し赤くとも、背筋は真っすぐに伸ばしていた。
その姿を見て、景翊は満足そうに目を細める。
「冗談はさておき――行くぞ。月花殿の下見だ」
「……了解」
※
月花殿――後宮の中でも特に雅を極めた宴席の一つ。
白木の柱に繊細な透かし彫りが施され、朱塗りの欄干には朝露を帯びた秋草が飾られている。天井からは薄絹の帳が垂れ、かすかな風にゆらゆらと揺れていた。
煌星は、その中央に立ち、空間の空気を一つひとつ確認するようにゆっくりと歩を進めた。
衣擦れの音と共に、彼の鼻がふと動く。
「……ん?」
足を止め、わずかに顔をしかめた。焚かれている香が、微かに鼻先をかすめたのだ。
白檀と沈香――その土台に混じって、わずかにだが、馴染みのある“甘い気配”があった。
(……これ、番紅花……?)
だが、番紅花は宴の香に使うような華やかな香料ではない。
むしろ薬用の生薬――わざわざ焚香に混ぜる意味が分からない。
「誰が、この香を準備したの?」
そう呟くと、背後から景翊の声がした。
「何か混ざっていたか?」
「うん。……番紅花に、近い。けど、これ単体で香りが立つほどじゃない。誰かが意図的に、沈香に重ねてきてる」
景翊は眉をわずかに動かすと、室内を見渡した。
「この殿の香の管理は、女官たちの仕事だ。だが、本来なら宴の前日に調香するはず……今日、すでに香を焚いていたのは“誰か”が先に手を加えていた証拠だ」
「つまり、宴を前に仕込まれてたってこと……」
煌星は、香炉に近づき、その香の残り香をそっと嗅ぐ。
やはり、微かに――だが確かに、“あの酒”と同じ成分の気配があった。
「……これ、偶然じゃない。誰かがもう、動いてる」
その言葉に、景翊の表情が変わる。
「宴を待たず、先に仕掛けるつもりか……」
「香の成分が弱いから、すぐに誰かをどうこうできるものじゃない。でも、繰り返し吸えば効くと思う。だから、宴当日に強い香を重ねた上であの酒を出せば──」
「その時には、もう抵抗できない状態になる」
二人の視線が、香炉に注がれる。
わずかに漂う甘さが、じわりと空間を満たしていた。
「……急いで確認しよう。誰がこの香を扱ったのか。それと、他に何か仕込まれていないか」
景翊の声が低く落ちる。すでに“敵”は動き出している。
その事実が、静かに、しかし確実に二人を焦らせていた。
煌星はそっと胸元を押さえる。
ただの罠ではない、何かもっと大きな意図――“後宮”という舞台を使って、誰かが仕掛けている陰謀の存在を、肌が感じ取っていた。
(やっぱり、この宴……何か起きる)
そう確信しながら、彼は景翊と共に、香の確認を命じるため女官のもとへと向かった。