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二十六、沈香の影、仕掛けられた意図

香の一件を確認するべく、煌星と景翊はすぐさま月花殿を離れ、香の管理を担う女官たちの元へと向かった。

応対に出てきたのは、香部屋の責任を任された女官長――潘采蓮という中年の女官だった。腰を折り、平伏しながらも、その仕草には無駄がない。いかにも後宮の年季を感じさせる、老練な態度だった。


「先ほど、月花殿で焚かれていた香について確認したい。誰の指示で、いつ、用意されたものかを答えよ」


景翊の低い声に、采蓮は深く頭を下げたまま、口を開く。


「はい、陛下。宴の香は、明後日に調合し、前夜に香炉へ仕込む段取りでございました。今朝、香を焚いたとのことですが……そのような指示は、どこからも出ておりません」

「では、誰かが無断で焚いたのかしら……?」


煌星が問い返すと、采蓮はわずかに顔を上げ、困惑を滲ませた。


「申し訳ございません。香部屋にある香材に異常はなく、鍵も施錠されておりました。使用されたのは、確かに“宴用”として保管していた沈香でございますが、焚いた者については……」

「把握していない、ということか」

「……はい、弁解の余地もございません。罰をお与えください」


景翊の言葉に、采蓮は深く頭を垂れた。

煌星は小さく溜息を吐く。

沈香そのものに細工をされた可能性――または、別の香がこっそり香炉に混ぜられた可能性もある。


(やっぱり、香部屋まで疑う必要があるな……)


煌星は采蓮の背後に並ぶ女官たちを見やった。

皆、一様に沈黙している。だが、それが「知らない」からなのか、「黙っている」からなのかは、分からない。


「とにかく、宴までに香材のすべてを改めて調べさせて頂きましょう?陛下。それと、香炉に出入りした記録、出仕簿、香部屋の見回り記録も出して頂きたいわ」

「……畏まりました、貴妃様」


采蓮が深々と頭を下げる。その動きの中に、僅かな緊張と、どこか他人事のような冷ややかさが混ざっていた。



宝華宮への帰路、煌星は沈黙していた。だが、その目はずっと伏せたまま、考えを巡らせている。


「……妙だな」

「うん。香部屋の女官たち、全員“知らない”って顔してたけど、ちょっと不自然だった」

「藩采蓮。後宮に仕えて二十年の女官長。こんな初歩的な確認ミスを見逃すような人間じゃない」


景翊の言葉に、煌星も頷く。


「香の件だけじゃないかも。“誰か”が、香部屋の女官を使って試してきたんじゃない? 本当に異変に気づくかどうか……」

「あるいは、俺たちが“どこまで知っているか”を、試してきた可能性もあるな」


二人の間に、しばし沈黙が落ちる。


「……嫌な感じがする。何かが、底の方で蠢いてるみたいで……いや、蠢いてるのはわかってたけどね……」

「それでも行くのか?」


唐突に問われ、煌星は一瞬、息を詰めた。


「もちろん。罠でも、行かなきゃ終わらない」

「ふ」


景翊がわずかに笑った。嘲笑ではなく、どこか安堵の滲む、それは柔らかな笑みだった。


「なら、俺が絶対に守る。餌になど、させるものか」

「……うん」


煌星は短く返した。

その背筋には、確かな意志が通っていた。

そしてその夜、柳蘭が密かに持ち込んだ報告書には――香部屋の見回り記録に、一つの“空白”が存在していることが記されていた。

宴の三日前、未明の刻――一時的に鍵が解かれていた形跡があったという。


「……そこに、香を混ぜた者がいた可能性が高い」

「うん。わざわざ鍵を外すってことは……内部の人間だけじゃなくて、外部から指示が来てたかも」


女官の単独犯か、それとももっと深い陰謀か。

月花殿の香に混ざっていた“番紅花”の香りは、ただの香料ではない。

それは、宴に仕掛けられた“第二の刃”――

そして、それに気づいた者が、すでに標的にされているということでもあった。


宴まで、あと二日。

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