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二十七、動き始める影

宴を前に、不穏な空気は日に日に濃さを増していた。

翌日。煌星は柳蘭から届けられた報告書を読み終え、机の上にそっと置いた。香部屋の施錠記録に残された“空白”――ほんのわずかな時間のほころび。だが、その隙を狙って仕込まれたものが、いずれ誰かを壊すかもしれないと考えると、胃の奥が冷えた。


(これはもう、偶然の域を超えてる)


なぜ、“番紅花”だったのか。

なぜ、宴の香にそれを混ぜる必要があったのか。

目的は誰かを“堕とす”ためか、それとも“疑いを誘導する”ためか――。

煌星は立ち上がり、帳を押し開けた。

外はすでに昼下がりで、庭の秋草が風に揺れている。

その奥に、景翊の姿が見えた。珍しく一人で佇み、何かを考え込んでいるようだった。


「……陛下」


煌星が声をかけると、景翊はすぐにこちらを振り返った。


「貴妃様。珍しく、自分から来たな」

「……来ちゃいけない?」

「いや、嬉しい」


その言葉に一瞬むっとしつつも、煌星は構わず歩み寄る。

並んで立つと、景翊は手にしていた紙束を煌星へ差し出した。


「今朝届いた報告だ。香部屋の件、例の潘采蓮は“病”と称して休んだそうだ」

「えっ……病?」


受け取った報告書をめくる。確かに、潘采蓮の名の横に“体調不良による欠勤”と記されていた。


「急に、ね。宴の準備の真っ最中に」

「怪しすぎる……!」


煌星が声を低くした瞬間、景翊も静かに頷いた。


「もう一つ――香部屋に出入りしていた女官の一人が、昨日の夕刻に姿を消した。『実家に急用』とだけ記録を残して」

「逃げた……?」

「あるいは、消された」


その言葉に、空気が一気に重くなる。

煌星は、胸の奥がざわざわと騒ぐのを感じながら、思わず景翊を見上げた。


「こんなに動きが早いなんて……僕たちが本格的に探り始めたって、知られてるの?」

「可能性はある。だが、それを逆手に取る手もある」


景翊はそう言うと、ゆっくりと腰を下ろし、庭を見つめながら言葉を継いだ。


「奴らは、今“こちらがどこまで知っているか”を探っている最中だ。だとすれば、こちらも同じことをするべきだ」

「“泳がせる”ってこと……?」

「ああ。ただし、注意が必要だ。奴らは次、必ず動く。宴を待たずして仕掛けてくる可能性もある」


煌星は唇を噛む。


「……でも、誰かが仕掛けてきたなら、逆に――」

「掴めるチャンスでもある」


景翊の声は低いが、芯がある。

煌星は頷き、ふと問いを口にした。


「……ねえ、景翊」

「ん?」

「僕が“疑われる”可能性って、あると思う?」

「なぜそう思う?」

「僕が一番近くにいるから。貴妃として、香も酒も……“使われる側”の立場だけど、もし誰かが逆に、“あの貴妃が怪しい”って思わせたかったら――」


そこまで言いかけたところで、景翊が短く息を吐いた。

そして、煌星の腕を軽く掴む。


「お前がそんな役割を負う必要はない」

「……でも」

「でも、じゃない。お前は俺の妃だ。今さら誰に何を言われようと、それは変わらない」


きっぱりとした言葉に、煌星は息を飲む。


「俺が信じている。それで充分だろう?」


その言葉に、胸の奥がじわりと熱くなる。

けれど、それを表には出さずに、煌星はそっぽを向いた。


「……毎回、言い方がずるい」

「お褒めに預かり光栄だ、貴妃様」


ふざけた調子に戻ったその声音に、思わず肩が笑いそうになった。


(でも――)


煌星はそっと視線を戻し、庭の先に視線を向けた。


(僕を信じてくれる人がいる。そう思えるだけで、ずいぶん違うんだな……)


宴まで、あと一日。

仕掛ける側も、守る側も、次の一手を測っていた。


そしてその夜――

宝華宮の片隅に、一人の女官が忍び込む影があった。

彼女の袖には、小さな封筒。

そこには、一枚の帳簿の切れ端と、短く走り書きされた一行の文。


――「“鳳華”を使え。それで終わる」――


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