宴を前に、不穏な空気は日に日に濃さを増していた。
翌日。煌星は柳蘭から届けられた報告書を読み終え、机の上にそっと置いた。香部屋の施錠記録に残された“空白”――ほんのわずかな時間のほころび。だが、その隙を狙って仕込まれたものが、いずれ誰かを壊すかもしれないと考えると、胃の奥が冷えた。
(これはもう、偶然の域を超えてる)
なぜ、“番紅花”だったのか。
なぜ、宴の香にそれを混ぜる必要があったのか。
目的は誰かを“堕とす”ためか、それとも“疑いを誘導する”ためか――。
煌星は立ち上がり、帳を押し開けた。
外はすでに昼下がりで、庭の秋草が風に揺れている。
その奥に、景翊の姿が見えた。珍しく一人で佇み、何かを考え込んでいるようだった。
「……陛下」
煌星が声をかけると、景翊はすぐにこちらを振り返った。
「貴妃様。珍しく、自分から来たな」
「……来ちゃいけない?」
「いや、嬉しい」
その言葉に一瞬むっとしつつも、煌星は構わず歩み寄る。
並んで立つと、景翊は手にしていた紙束を煌星へ差し出した。
「今朝届いた報告だ。香部屋の件、例の潘采蓮は“病”と称して休んだそうだ」
「えっ……病?」
受け取った報告書をめくる。確かに、潘采蓮の名の横に“体調不良による欠勤”と記されていた。
「急に、ね。宴の準備の真っ最中に」
「怪しすぎる……!」
煌星が声を低くした瞬間、景翊も静かに頷いた。
「もう一つ――香部屋に出入りしていた女官の一人が、昨日の夕刻に姿を消した。『実家に急用』とだけ記録を残して」
「逃げた……?」
「あるいは、消された」
その言葉に、空気が一気に重くなる。
煌星は、胸の奥がざわざわと騒ぐのを感じながら、思わず景翊を見上げた。
「こんなに動きが早いなんて……僕たちが本格的に探り始めたって、知られてるの?」
「可能性はある。だが、それを逆手に取る手もある」
景翊はそう言うと、ゆっくりと腰を下ろし、庭を見つめながら言葉を継いだ。
「奴らは、今“こちらがどこまで知っているか”を探っている最中だ。だとすれば、こちらも同じことをするべきだ」
「“泳がせる”ってこと……?」
「ああ。ただし、注意が必要だ。奴らは次、必ず動く。宴を待たずして仕掛けてくる可能性もある」
煌星は唇を噛む。
「……でも、誰かが仕掛けてきたなら、逆に――」
「掴めるチャンスでもある」
景翊の声は低いが、芯がある。
煌星は頷き、ふと問いを口にした。
「……ねえ、景翊」
「ん?」
「僕が“疑われる”可能性って、あると思う?」
「なぜそう思う?」
「僕が一番近くにいるから。貴妃として、香も酒も……“使われる側”の立場だけど、もし誰かが逆に、“あの貴妃が怪しい”って思わせたかったら――」
そこまで言いかけたところで、景翊が短く息を吐いた。
そして、煌星の腕を軽く掴む。
「お前がそんな役割を負う必要はない」
「……でも」
「でも、じゃない。お前は俺の妃だ。今さら誰に何を言われようと、それは変わらない」
きっぱりとした言葉に、煌星は息を飲む。
「俺が信じている。それで充分だろう?」
その言葉に、胸の奥がじわりと熱くなる。
けれど、それを表には出さずに、煌星はそっぽを向いた。
「……毎回、言い方がずるい」
「お褒めに預かり光栄だ、貴妃様」
ふざけた調子に戻ったその声音に、思わず肩が笑いそうになった。
(でも――)
煌星はそっと視線を戻し、庭の先に視線を向けた。
(僕を信じてくれる人がいる。そう思えるだけで、ずいぶん違うんだな……)
宴まで、あと一日。
仕掛ける側も、守る側も、次の一手を測っていた。
そしてその夜――
宝華宮の片隅に、一人の女官が忍び込む影があった。
彼女の袖には、小さな封筒。
そこには、一枚の帳簿の切れ端と、短く走り書きされた一行の文。
――「“鳳華”を使え。それで終わる」――