翌朝。宴の前日。
宝華宮は、いつにも増して静まり返っていた。
準備に奔走する侍女たちの足音が響きながらも、空気にはどこか張り詰めた気配が漂っている。
煌星は、朝餉もそこそこに帳を払い、帳台の前で静かに香を調合していた。
(……これで、よし)
香炉の中に焚いたのは、ごく薄い白檀と梅花の香。鳳華の気を鎮めるための、繊細な調香だった。
万が一、宴の最中に“鳳華”の誰かが刺激された時、これがわずかな緩衝剤になる。
「貴妃様、魏嬪様がお見えです」
柳蘭の声に、煌星は小さく頷いた。
魏嬪が帳を分けて姿を現す。
その表情はいつも通りの落ち着きを保っていたが、その瞳の奥には何かを見透かすような鋭さがあった。
「朝から香を練っているなんて、珍しいことですわね」
「念のため、に……この宴、何かが起きる気がして」
「ええ、私も同感です」
魏嬪は、卓に置かれた調香道具を一瞥し、声を落とした。
「昨夜、香部屋の女官が一人、内密に取り調べられたそうですわ。皇帝陛下の命令で」
「……!」
「名は“春燕”。潘采蓮の下で働いていた者です。数日前、施錠されたはずの香部屋に深夜立ち入った記録が残っていました」
煌星は息を呑んだ。
「それって……やっぱり、番紅花を仕込んだのも彼女?」
「そこまではまだ判明しておりません。ただ、彼女が“何者かの指示で動いた”ことだけは明らかになったと」
魏嬪の瞳が、静かに煌星を見つめる。
「そして、私の推察では……“璃月様”を狙ったものではなく、“貴妃様”ご自身を標的にした動きではないかと」
「……僕を?」
煌星の声が、思わず揺れる。
魏嬪は頷き、慎重に言葉を選ぶように続けた。
「『誰が本物で、誰が偽物か』。それを確かめたいと思う者がいる。鳳華は“番”にしか反応しない――ならば、あえてその香で試そうと考える者がいてもおかしくありません」
「……つまり、“僕が璃月じゃない”って疑ってる?」
魏嬪は何も言わずに視線を伏せた。
その沈黙こそが、答えだった。
しばらくの間、重苦しい空気が部屋を包む。
煌星は卓の縁にそっと手を置き、指先にわずかな力を込めた。
(誰が僕を“試そう”としてるのか……それを、宴で見極めるしかない)
そこへ、景翊が帳の奥から姿を現した。
魏嬪の姿を見て、軽く頷く。
「ご苦労だったな、魏嬪」
「私は、陛下のご意志に従って動いただけですわ」
そう言い残して、魏嬪は静かに去っていった。
景翊は煌星の傍に歩み寄ると、焚かれている香を一嗅ぎし、小さく笑った。
「……これは、“守る香”か」
「……うん。誰かが鳳華に仕掛けるなら、その時に少しでも抑えられるようにって思って」
「いい判断だ。だが、本当にお前に効くのは、俺だけのはずだ」
景翊の言葉に、煌星は一瞬目を伏せたが、すぐに視線を逸らして言い返す。
「……またそういう冗談言って……」
(僕を揶揄って何が楽しいんだろ……馬鹿景翊)
けれど、その声には微かに困惑が滲んでいた。
まるで、信じたくないわけではないが、信じきるには何かが足りない――そんな、揺れ。
宴まで、残り一日。
張り詰めた静寂のなかで、鳳華の本能は、確かに気配を帯びはじめていた。