月花殿の設えは、朝から着々と進められていた。
金箔をあしらった屏風が運び込まれ、長卓には南方から取り寄せた果物や菓子が並べられていく。
女官や下働きの者たちが慌ただしく立ち回るなかで、煌星は景翊と共に、殿内の動線と警備の確認を行っていた。
「主賓席の周囲に香炉を四つ。通常より多いな」
景翊が立ち止まり、香炉の位置を示す図を見下ろす。
そこには確かに、中央付近に配置された香炉の印があった。どれも“仕掛け”には格好の場所だ。
「……宴の主役が“番”なら、香に弱い者が近づけないのは当然、って言い訳も立つしね」
煌星が苦笑するように言うと、景翊は横目で彼を一瞥する。
「だが、今回はそれを逆手に取られる可能性もある」
香に含まれる成分――“鳳華”を刺激する要素――それは、目に見えない毒にも等しい。
穏やかな香煙に仕込まれていれば、客の誰も気づかぬまま、標的の体内に入り込むだろう。
「番紅花と薔薇を重ねて調香すれば、甘さに引っ張られて気づきにくい。もし宴で誰かがそれを嗅いで、発情に近い反応を示したら――」
「“お前は本物ではない”と、そう証明する材料にされる」
景翊の言葉は冷静だったが、その視線は鋭かった。
煌星はふと、歩を止めた。
秋の風がふわりと吹き込み、天井から垂れる薄絹がゆらりと揺れる。
その香りは、今のところ清らかだった。けれど、誰かが仕込もうとすれば、ここほど最適な場所もない。
「ねえ、景翊。……宴の途中で、僕に何かあったら」
「何も起きない。俺が全部潰す」
煌星が全部言い終わる前に、景翊はそう断言した。
煌星は驚きと共に、言葉を呑む。
それはただの強がりでも、約束でもなかった。
“本当に、そうするつもりだ”という意思が、景翊の瞳に宿っていた。
「あのさぁ!そういうのよくないからな!いっつも僕を揶揄ってるだろ」
思わぬ真摯さに、煌星は少しばかり茶化したようにそう言った。
いつもの景翊ならばここで何かしら軽口を叩いてくるはずだ。
けれど、違った。
「お前はまだ未成熟だ。だからそろそろはっきりと教えておく。俺は、お前の“番”だ。そして、お前は――俺の番だ」
その声には軽さも、茶化しもなかった。
ただ、まっすぐに、静かに――景翊の“本心”がそこにあった。
煌星は、言葉を失ったまま、目を瞬かせる。
信じられない、とも。信じたい、ともつかないまま、ただ景翊を見返していた。
「景耀が璃月を見つけたように、俺もお前を見つけた。信じなくてもいい。ただ、忘れないでくれ」
ゆっくりとその距離を詰めて、景翊は煌星の頬を指先で撫でる。
「お前が傷つくなら、俺が全部引き受ける」
(そんなの……言われたって……)
煌星は、何かを返そうとして言葉が出てこなかった。
けれどその時、殿の外から足音が聞こえた。
空気がぴんと張り詰める。
「失礼いたします、皇帝陛下、貴妃様」
柳蘭だった。
彼女の手には、重厚な封蝋がされた文が握られていた。
「内府から急ぎの届けでございます。……“招待状”の控えが、一通多くございます」
「……え?」
煌星が眉を寄せる。
柳蘭は文を差し出しながら、低く言った。
「本来、明日の宴における参加者はすべて確認済みですが、この“最後に届いた一通”だけ、差出人が不明。文面には“陛下の特別な許可により参席する”と記されておりますが――」
「……私は、誰にも追加の許可を出していない」
景翊の表情が変わった。
煌星も思わず、手元の文に目を落とす。
「この……名前……」
「――龍景恒だ」
景翊が呟いたその名は、後宮でも禁忌に近い響きを持っていた。
皇族にして、先帝の弟。
景耀・景翊兄弟の叔父であり、かつて皇位継承の座を目前にしながら、それを奪われた男。
「まさか、ここで姿を現すとはな……」
「これ、偽造ってことだよね……?招待状を偽造してまで、何を仕掛ける気で……」
煌星が呟いたその声に、景翊は深く頷いた。
「明日は、獣も策士も、牙を隠して集まる夜になるな。だが――」
その言葉の先を言う前に、景翊はふと手を伸ばし、煌星の顎先をそっと持ち上げた。
「誰が来ようと、俺の“番”を奪わせる気はない」
「……またそういう……」
反射的に逸らそうとする視線を、景翊の瞳が静かに受け止める。
そして彼は、微笑を浮かべた。
煌星の胸の奥が、静かに揺れ動く。
それは警鐘のようでいて、鼓動にも似ていた。
(……僕は、本当に……?)
言葉にはならない問いが、薄く立ち込めた香煙にかき消されていった。
宴の夜は、すぐそこまで迫っている。