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三十、月下の陰謀、開宴の幕

夜が更け、月が冴え冴えと天頂にかかる頃――ついに、宴の夜が訪れた。

月花殿は、いつもよりも華やかに飾り立てられていた。

繊細な細工を施された灯籠が庭に並び、白木の回廊を仄かに照らす。

夜風に乗って、薄く香るのは白檀と梅花。

煌星自身が練り上げた、緩衝用の香だった。


「貴妃様、御席へ」


柳蘭に促され、煌星は緋色の衣を纏い、月花殿の主賓席へと向かう。

その背後には、静かに景翊が付き従っていた。

殿内は既に賑わっていた。

魏嬪、張嬪をはじめとする後宮の面々。

高官たち、将軍たち。

そして――


「……龍景恒」


煌星の目が、ある一点で止まった。

白銀の冠を戴き、悠然と座する男。

端正な顔立ちに油断のない眼差し──それは間違いなく、先帝の弟、龍景恒だった。

直接に会ったことなど、煌星にはない。それでもわかるほどの存在感。

その面差しはどことなく景翊と似通っている。


(やっぱり……本当に来たんだ)


煌星の胸が微かにざわつく。

一礼を交わすと、景恒はこちらに薄く笑みを向けた。

それは、歓迎でも警戒でもない。

ただ、静かに「見ている」とでも言うような視線だった。


「……気を抜くな。奴はただの賓客じゃない」


景翊の低い囁きが、煌星の耳に届く。


「……分かってる」


煌星は静かに頷いた。


(前の時から僕を狙っていた節もある……気を抜くな、煌星)


二人が座ると、宴が始まる。

楽人たちが奏でる琴の音が流れ、絹ずれの音と盃の触れ合う音が交錯する。

次々と運ばれる珍味、南方の果実酒。

誰もが笑い、華やかに振る舞っている。

だが、その実、殿内に満ちる空気は重かった。

煌星は盃を手にしながら、周囲を冷静に観察していた。


(まだ、何も起きてない。けど――)


焚かれる香。

酒の香り。

人々の視線。

すべてが、じわじわと空気を満たし、何かが起きる前触れを作っているようだった。


やがて、ふと香りが変わった。

それまで清らかだった香が、どこか濃く、甘く――妙に湿った熱を帯びて広がっていく。

煌星は眉をひそめ、そっと鼻を鳴らす。


(……この香り……何かが、違う)


白檀と梅花に混じって、ほんの微かに薔薇と番紅花の気配。

だが、それだけではなかった。

もっと人為的な、肌をくすぐるような違和感。


「……おかしい、こんな香り、僕……」


──知らない。

胸の奥がわずかに熱を帯びる。

意識の奥に、ざらりとした波が立つ。


(違う……これは……)


その時だった。

煌星の視線が、殿の一角に立つ一人の武官に合った。

若く、端正な顔立ち。

将軍家の次男――と噂される、高位の龍血。


彼と目が合った瞬間、胸元がじんと熱くなる。

喉の奥がひくりと脈打ち、指先が微かに震えた。


(なんで……あの人の匂いで……?)


混乱が走る。

番以外の龍血に、鳳華が反応するなど、本来ならば有り得ない。

だから“璃月”であればなんともないはずだ。

それなのに、“煌星”の体は明らかに――微かに、反応し始めていた。


「……貴妃」


すっと、景翊が背後に現れる。


「顔が赤い。香が変わった。新たに……何か仕込まれている」


そう囁き、そっと煌星の手を取った。

その瞬間、体に走っていた熱が、嘘のように引いていく。

ただの皮膚の接触ではない。

本能が、番の存在に触れたことで鎮静化した――それが、はっきりと分かった。


「……っ……」


煌星は震える息を吐いた。


「今すぐ、香炉を換えろ。好きな香りではない」


景翊の声が殿内に低く響き、警備が動き始める。

その間にも、景翊は煌星の手をしっかりと包み込んだまま、瞳を細めていた。


「……なに、これ……どうして……?」


煌星がぽつりと呟く。


「お前を試すための香だ。番以外に反応すれば、“璃月ではない”と証明される」

「……僕……さっき……」

「反応させられたんだ。香に」


景翊の声は、静かだった。

だが、その裏には確かな怒りが宿っていた。


「お前は、俺に触れた時だけ鎮まった。それが全てだ。それが誤算だったんだろうな」


煌星は、胸の奥にこみ上げてくるものを押さえきれなかった。

不安、羞恥、そして――微かな安堵。


(信じたい。信じて、いいのかな……)


宰相たちは動いている。

番という最も神聖な絆をも、証明の材料に変えようとする陰謀。

だが、彼らの企みは、今まさに景翊の手で崩れかけていた。

けれど、殿の奥。

酒の盃を手にした龍景恒が、面に笑みを浮かべていた。

その視線の奥には、確かに――次なる一手を待つ、策士の冷徹な光があった。


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