夜が更け、月が冴え冴えと天頂にかかる頃――ついに、宴の夜が訪れた。
月花殿は、いつもよりも華やかに飾り立てられていた。
繊細な細工を施された灯籠が庭に並び、白木の回廊を仄かに照らす。
夜風に乗って、薄く香るのは白檀と梅花。
煌星自身が練り上げた、緩衝用の香だった。
「貴妃様、御席へ」
柳蘭に促され、煌星は緋色の衣を纏い、月花殿の主賓席へと向かう。
その背後には、静かに景翊が付き従っていた。
殿内は既に賑わっていた。
魏嬪、張嬪をはじめとする後宮の面々。
高官たち、将軍たち。
そして――
「……龍景恒」
煌星の目が、ある一点で止まった。
白銀の冠を戴き、悠然と座する男。
端正な顔立ちに油断のない眼差し──それは間違いなく、先帝の弟、龍景恒だった。
直接に会ったことなど、煌星にはない。それでもわかるほどの存在感。
その面差しはどことなく景翊と似通っている。
(やっぱり……本当に来たんだ)
煌星の胸が微かにざわつく。
一礼を交わすと、景恒はこちらに薄く笑みを向けた。
それは、歓迎でも警戒でもない。
ただ、静かに「見ている」とでも言うような視線だった。
「……気を抜くな。奴はただの賓客じゃない」
景翊の低い囁きが、煌星の耳に届く。
「……分かってる」
煌星は静かに頷いた。
(前の時から僕を狙っていた節もある……気を抜くな、煌星)
二人が座ると、宴が始まる。
楽人たちが奏でる琴の音が流れ、絹ずれの音と盃の触れ合う音が交錯する。
次々と運ばれる珍味、南方の果実酒。
誰もが笑い、華やかに振る舞っている。
だが、その実、殿内に満ちる空気は重かった。
煌星は盃を手にしながら、周囲を冷静に観察していた。
(まだ、何も起きてない。けど――)
焚かれる香。
酒の香り。
人々の視線。
すべてが、じわじわと空気を満たし、何かが起きる前触れを作っているようだった。
やがて、ふと香りが変わった。
それまで清らかだった香が、どこか濃く、甘く――妙に湿った熱を帯びて広がっていく。
煌星は眉をひそめ、そっと鼻を鳴らす。
(……この香り……何かが、違う)
白檀と梅花に混じって、ほんの微かに薔薇と番紅花の気配。
だが、それだけではなかった。
もっと人為的な、肌をくすぐるような違和感。
「……おかしい、こんな香り、僕……」
──知らない。
胸の奥がわずかに熱を帯びる。
意識の奥に、ざらりとした波が立つ。
(違う……これは……)
その時だった。
煌星の視線が、殿の一角に立つ一人の武官に合った。
若く、端正な顔立ち。
将軍家の次男――と噂される、高位の龍血。
彼と目が合った瞬間、胸元がじんと熱くなる。
喉の奥がひくりと脈打ち、指先が微かに震えた。
(なんで……あの人の匂いで……?)
混乱が走る。
番以外の龍血に、鳳華が反応するなど、本来ならば有り得ない。
だから“璃月”であればなんともないはずだ。
それなのに、“煌星”の体は明らかに――微かに、反応し始めていた。
「……貴妃」
すっと、景翊が背後に現れる。
「顔が赤い。香が変わった。新たに……何か仕込まれている」
そう囁き、そっと煌星の手を取った。
その瞬間、体に走っていた熱が、嘘のように引いていく。
ただの皮膚の接触ではない。
本能が、番の存在に触れたことで鎮静化した――それが、はっきりと分かった。
「……っ……」
煌星は震える息を吐いた。
「今すぐ、香炉を換えろ。好きな香りではない」
景翊の声が殿内に低く響き、警備が動き始める。
その間にも、景翊は煌星の手をしっかりと包み込んだまま、瞳を細めていた。
「……なに、これ……どうして……?」
煌星がぽつりと呟く。
「お前を試すための香だ。番以外に反応すれば、“璃月ではない”と証明される」
「……僕……さっき……」
「反応させられたんだ。香に」
景翊の声は、静かだった。
だが、その裏には確かな怒りが宿っていた。
「お前は、俺に触れた時だけ鎮まった。それが全てだ。それが誤算だったんだろうな」
煌星は、胸の奥にこみ上げてくるものを押さえきれなかった。
不安、羞恥、そして――微かな安堵。
(信じたい。信じて、いいのかな……)
宰相たちは動いている。
番という最も神聖な絆をも、証明の材料に変えようとする陰謀。
だが、彼らの企みは、今まさに景翊の手で崩れかけていた。
けれど、殿の奥。
酒の盃を手にした龍景恒が、面に笑みを浮かべていた。
その視線の奥には、確かに――次なる一手を待つ、策士の冷徹な光があった。