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三十一、龍血の圧、裂けゆく仮面

月花殿に漂う香りが入れ替えられ、宴は表面上の静けさを取り戻していた。

しかし、その静けさは仮初のもの。

貴妃が一瞬でも顔を紅潮させた、その瞬間を見逃さなかった目は確かにあった。


(……見られた)


煌星は、唇を噛んだまま膝の上に指を強く絡めていた。

香炉の入れ替えなどで場が落ち着いても、心の中はざわついたままだ。

景翊が手を握ってくれていなければ、今も理性を失いかけていたかもしれない。


「……大丈夫か」

「うん、なんとか……」


囁くようなやり取り。

けれど、その言葉を遮るように、殿の中央へと進み出る一人の男がいた。


龍景恒。


「本日は、こうして盛大なる月宴の席にお招きいただき、光栄の至り」


落ち着いた低音。

姿勢、礼儀、振る舞いすべてに威圧感がある。

ただ座していた時以上に、その存在感は殿内に満ちた。


「ささやかながら、宴に華を添えられれば」


そう言い、景恒は景翊と煌星の元へと歩み寄った。

官女が運んだ一対の銀盃を、自らの手で持ち、捧げる。


「陛下、そして貴妃様へ」


その盃の香りは、一見すればただの果実酒だった。

だが、その奥には――微かに蠢くものがある。


(これは……さっきと、違う……)


ほんの一瞬、鼻腔にひっかかる刺激。

煌星の中にあの“熱”が、またしても灯ろうとしていた。


「貴妃……?」


景翊の声が届くより先に、景恒が一歩、さらに距離を詰めた。

その瞬間だった。

ふわりと、肌を撫でるような圧。


龍血。


それも、ただの高位龍血ではない。

“皇族”という、最上位の血筋が放つ本能の圧力。


(……っ!)


足がすくみ、背筋が強ばる。

身体の奥がじんと脈打ち、嫌でもその香りに反応しそうになる。

番ではないと、本能は理解しているはずなのに――身体のほうが、それを許さない。


「……お下がりください、叔父上」


景翊が、鋭く声を発した。

片腕で煌星の肩を抱き寄せ、視線を真っ向からぶつける。


「これは私が最も寵愛する妃。本来は奥深くに閉じ込めておきたいくらいなのです。手を出す輩など切り捨ててしまいたくなる……叔父上にもお分かりになるでしょう?」


景翊はそう言いながら、煌星の腰をそろりと撫でる。

ふ、と煌星が息を詰めた。

一見、それは悪戯な皇帝の手によって昂りを持たされた貴妃にも見えるだろう。



「無礼があったなら、詫びよう。……だが、香も盃も、宴の内。私が差し出したものではない」


景恒は軽く頭を下げると、ふと何気ないように後方へ視線を流す。

その先には、張嬪がいた。

煌星の視線も自然とそちらへ向かう。

張嬪は盃を手に、あくまで優雅に微笑んでいた。


(“偶然”のように仕組まれた、媚香と献酒――“貴妃”が璃月ではないと証明できれば、皇帝も偽者……そういう狙い……わかっていたのに、くそッ……)


煌星の指先には、景翊の手が重なったままだった。

その確かさだけが、揺れる空気の中で唯一の支えだった。


「……何も、起きてない。大丈夫だ」

「うん……」


景翊の声は低く、誰にも届かぬように落とされた。

その手は離れず、ぴたりと煌星の熱を受け止めていた。


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