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三十二、仮面の欲、暴かれた誤算

宴が再開された。

楽人が再び琴を奏で、華やかな話声が殿内を包んでいく。

だが、張り詰めた緊張の糸はまだ誰の胸にも残っていた。

そしてそれは、煌星にも――。


(……さっきの香と酒。あれは、試すためのものだった)


視線を逸らせば、あの銀盃が目に映る。

煌星はそっと喉元に指を当てた。微かに熱が残っている。


(もし……もしもあの時、景翊が触れてくれなかったら)


恐らく、自分は“反応”してしまっていた。

それがどんな証拠として扱われたか――考えるだけで、息が詰まりそうになる。


「ご気分が優れませんか、貴妃様」


不意に声がかかる。

目を向けると魏嬪が立っていた。

心配そうな表情を浮かべ、そっと近づいてくる。


「今宵の香りが、少しきつかったのかもしれませんわ。月も見頃でございます。少し、庭の散策などいかがでしょうか?私が付き添いますわ」


魏嬪は景翊にも目配せをする。

すると景翊が、ゆっくりと頷いた。


「見て来るといい。魏嬪と一緒ならば問題ないだろう」


煌星もそれに頷き立ち上がる。

そんな風に煌星が少し席を外したほんの僅かな隙だった。


「陛下、お一人のうちに……よろしければ、盃を」


控えめな声と共に近づいてきたのは、張嬪だった。

艶やかな衣装に妖艶な笑みを浮かべている。

その手には、小ぶりの銀盃が乗った盆があった。


「ささやかながら、私からの献酬でございます。……本当に、ささやかでございますけれど」


しおらしく見せてはいるが、その視線は景翊に縋るようでいて、どこか自信にも満ちていた。

張嬪の纏う香りも、わずかに甘く、刺激的だ。


(……香も合わせてあるな。張嬪は常血だったか……煌星のようにはならないというわけか)


景翊は盃を手に取りながら、その色と香りに微かな違和感を覚えていた。

果実酒のはずなのに、底に沈むような淀みがある。

こういうことがなければ気が付かずに口にしていたかもしれない。そんな小さな違和感。


「……ふむ」


景翊は盃を唇に近づけたふりだけして、横目で張嬪を見やった。

彼女は期待に満ちた顔で、わずかに身を乗り出している。


「なかなか手の込んだ酒だ。張嬪、お前が選んだのか?」

「はい。父上様から分けていただいたものでございます。陛下の……ご寵愛を賜れたらと思いまして」


そこで初めて、景翊の瞳が冷たく光る。


(父上、ね……――龍景恒の手回しの可能性が高いな)


「宴には華やかさも必要だが、私は薄香のほうが落ち着く」


にこやかにそう言って、景翊は盃を卓に戻す。

張嬪の顔が、ほんのわずかに引きつった。


――と、そこへ煌星が戻ってきた。


「……陛下?」


その声に、景翊の口元が緩む。


「ああ、ちょうどよかった。貴妃、そなたの香りのほうが、よほど心地良い」


張嬪が何かを言いかけたが、煌星が景翊の袖を取ったのを見て、悔しそうに身を引いた。


(……失敗だったと、気づいていればいいがな……この娘もどこまで理解してここにいるものか)


そう思いながら、景翊は再び煌星の手を取り、その熱を確かめるように包み込んだ。


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