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三十三、策の裏、牙の兆し

時は少し遡る。

煌星と魏嬪は月花殿の庭に出ていた、


月の光が庭を白く照らしている。

回廊を歩きながら、煌星はふと立ち止まり、声を落とす。


「……あの香、天然じゃなかった。揮発の仕方が不自然だった。煙が逆風を避けるように散って……あれ、人工香だよ。しかも、発情系の」

「ご名答ですわ。いえ、気づかれて当然ですわね。貴妃様は調香の達人」


魏嬪はやわらかく頷いた。


「“揺さぶり”をかけられたのですよ。誰に反応するのか。誰にしか反応しないのか。――“璃月様”であれば、他の誰かに発情するなどあり得ませんもの」

「僕が……他の誰かに反応してたら、それで……でも、僕は」


煌星の声が低く沈む。

魏嬪はそれを否定しなかった。

代わりに、穏やかな声で続ける。


「けれど、貴妃様は陛下の手にだけ、静まった。それが“番”の証。……敵方にとっては、誤算でしたわね」


煌星は、手のひらを見つめた。

そこに残っているのは、たしかに景翊の温もりだった。


「そうだね……まあ、ちょっとまだ僕は信じられないけれど」


魏嬪はその言葉に、くすりと笑った。

そのまま、月明かりを受けた白砂の小径に視線を落としながら、ふと声音を下げる。


「……ですが、沈建業と龍景恒が、ここまで露骨な手を使ってくるとは。何か、焦っている気が致します」

「……追い詰められてるってこと?」

「ええ。彼らは“景耀陛下が倒れている”という事実に気づいています。その上で、“影武者”が座についているのでは、という仮説を強めている」


煌星は、息をのんだ。


「じゃあ……“璃月”が“璃月じゃない”と証明できれば……うちが失墜する、か」

「そうですね。貴妃を偽った罪……ひいては、太傅・蘇天佑の影響力を削げます」


魏嬪の眼差しが鋭くなる。


「そして、“皇帝も偽者だ”という疑念に繋げる。連鎖的に、ですわ」

「……でも、それは……陛下は、本物でもないけど、偽物ではないよね?」

「お血筋を考えれば偽物とはちがいますね。しかし、彼らは“証拠”を作ろうとしている。鳳華の本能すら、道具にして」


煌星は、ぎゅっと拳を握った。


(番として、じゃない。“証拠”として。……そんなの、許せない)


魏嬪は、ちらりと煌星の横顔を見た。


「貴妃様。そろそろ、お覚悟を」

「……覚悟?」

「“番”であると認めるということは、政治の駒になるということ。愛ではなく、“力”として見られる日が来るかもしれません。ましてや貴方様は璃月様同様の立場を得る可能性もございます」


煌星は目を伏せ、ゆっくりと歩を進めた。


「……今更、逃げはしないよ。ここに来た時から、そうだった。僕は……璃月の代わりに、ここにいるんだ」

「ええ。けれど、それ以上の“意味”を持たれるようになってしまったのですよ。貴方様は」


煌星は一瞬、魏嬪の言葉の意味を測りかねた。

だが、そのまなざしは――どこか、未来の重さを見据えていた。

庭の端に差しかかったところで、遠く殿内の方からかすかに喧騒が立つ。


「……戻りましょうか。宴はまだ終わっていません」


魏嬪の言葉に、煌星は静かに頷いた。



その頃――殿の奥。

帳の陰で、沈建業が誰かと低く言葉を交わしていた。


「……あの“香”が通じなかったのは、誤算だったな」

「仕方あるまい。だが、まだ手はある」


沈の目が、月光の差し込む回廊を見つめる。


「次は、“血”で縛ってみよう。あの煌星が、“鳳華”である限りな」


暗く、冷たい声が、宴の終わりに向かってゆっくりと動き出していた。


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