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三十四、偽りの血、選ばれし檻

「月はどうだった?」


隣に座る煌星を引き寄せるようにしながら、景翊は小さく尋ねた。


「……魏嬪と少し話をした。……あの香のこととか」

「そうか」


それだけ答えた景翊は、手元の盃を持ち上げることなく卓へ戻す。

緊張は、未だ解けない。


──そのときだった。


「……蘇家の者が、月花殿に入ったと?」


低く、氷のように冷えた声が、殿の奥から響いた。

その場にいた誰もがわずかに息を飲む。

帳の向こうから現れたのは、宰相・沈建業。

重臣中の重臣。その姿一つで、殿内の温度が数度下がったように感じられた。


「太傅・蘇天佑の使いが、貴妃様に“文を届けに参った”と。夜宴の最中に、いささか礼を欠いておりますな」

「私の父が?」


煌星は思わず身を起こす。


「……父が、こんな時に無意味な文を寄越すはずありません。内容は?」

「それをお伺いする前に、まずは“貴妃様が本当に蘇家の娘であるかどうか”、明らかにしておかねばなりませんな」

「は……?」


沈は歩を進め、背後の随臣に目配せする。


「すでに一部では“璃月様ではない”という疑念が囁かれております。……番であると称する皇帝もまた、影武者ではないかと」


殿内に、ざわりとどよめきが走った。


「貴妃様には、しばし“隔離”をお願いしたく」


その言葉に、煌星が息を呑むより早く、

――景翊が音もなく立ち上がっていた。


「……宰相は知らぬようだ」


低く落とされたその声に、空気が震えた。


「歴代、寵姫を奪われた皇帝が、どれだけの血を流したかを――」


刹那、景翊の手が動いた。

腰に帯びていた佩刀が、滑るように抜かれる。

銀光が走り、次の瞬間には――沈建業の喉元に、その刃が突きつけられていた。

殿内が凍りつく。誰一人、息を飲むことさえできない。


「貴妃に指一つでも触れてみろ。次に落ちるのは、貴様の首だ」


それは皇帝としての威圧ではなかった。

一人の“番”を守ろうとする、龍の本能だった。

沈建業の表情はわずかに引きついたが、それでも平静を装い、ゆっくりと息を吐いた。


「……陛下。このような場で、刃を抜かれるとは……あまりに非礼では?」

「非礼だったのは、貴妃に“偽者”と烙印を押そうとした、貴様だろう?朕の耳には“我が貴妃が偽物”などという噂は届いておらぬが?」


景翊の声は低く、しかし一分の迷いもなかった。

煌星が立ち上がり、慌ててその袖を掴む。


「陛下、お納めくださいませ。私は気にしておりません。そこの宰相様も国を憂いての行動ですわ」


景翊の動きが止まる。

煌星の声は微かに震えていたが、その目は真っすぐだった。

「宰相様? 私に疑いがあるのなら、応じます。……でも今は、陛下のお慈悲に縋るべき時かと。そうでなければ――どうなるか、お分かりでしょう?」

沈建業はそのやり取りを、長い沈黙の末に静かに見つめ――やがて、深く頭を下げた。


「……非礼が過ぎました。今宵の無礼、陛下と貴妃様に深くお詫びいたします」


そう言って、沈はゆっくりとその場を離れていく。

煌星は力が抜けたように座り込み、景翊がすぐそばに膝をついた。


「すまない」

「大丈夫、ありがとう」


その声はかすかに震えていた。

だが、煌星の瞳には、もう覚悟の光が宿っていた。


(このままでは、守りきれない。……なら――どうするべきなのか、僕は)


景翊の視線が、夜の奥へと向けられる。

宴は終わりを迎えつつあった。

けれどその夜がもたらすものは、まだ何も終わっていなかった。


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