月花殿の灯が落ち、宴は名目上の終わりを迎えていた。
だが、煌星の心にはまるで終わりが訪れていなかった。
薄紅の衣のまま、寝台にも座れず、ただ静かに卓へ向かって香を整える。
器に指先を滑らせ、ひとつずつ香木を選ぶたびに、頭の中に別の言葉が浮かぶ。
(“璃月ではない”と知られたら、父が……)
太傅・蘇天佑。
煌星の父であり、双子の姉・璃月を貴妃として後宮に送り込んだ家の主。
そして今、その璃月の代わりを務める自分の存在が、危うい均衡の上にある。
(でも……“皇帝の番”じゃないと、思われてる)
香を焚いても、胸の奥の焦燥は少しも晴れない。
逃げるわけにはいかない。
けれど、立っていることすら危うい。
そのとき、ふいに扉が音もなく開いた。
「……景翊」
入ってきたのは、月明かりを背負った景翊だった。
そのまま黙って煌星へ歩み寄ると、無言で抱き締めてきた。
「……っ、なに……」
「帰れ」
短く、けれど強い声。
抱き寄せた腕に、迷いはなかった。
「これ以上は危険だ。今夜の様子を見て、宰相も景恒も次の一手を打ってくる。お前は……ここにいては壊される」
「……帰れって、言った? 僕に、今さら」
煌星は景翊の胸を軽く押し返した。
その目には、怒りではなく、悔しさがにじんでいた。
「帰ったら、全部終わるんだよ。僕が璃月じゃないって、誰かに突き止められたら、父が潰される。……皇帝が偽者って話にされたら、あなたも……!」
「……」
「逃げられないよ。逃げないって決めて来たんだ、僕は」
景翊はその言葉を聞いて、静かに目を伏せた。
そして、ふたたび顔を上げる。
その瞳は、もう揺れていなかった。
やがて、景翊は煌星の頬に手を添え、言った。
「……なら、俺と契れ」
「……え?」
「お前が“俺の番”として記されれば、誰も手を出せなくなる。“鳳華”が他の龍血に反応することは、決してない。“番”がいる限りは」
煌星の呼吸が止まりそうになる。
それは、逃げ道ではなく、覚悟を迫る提案だった。
「……でも僕は今、発情期じゃない……そんな状態で」
「俺は“皇族の龍血”だ。一時でも、契れば――誰にも嗅ぎ分けられぬ“絆”が残る」
「……そんな、本当に……」
「できる。俺の血なら、数日だけでも“番の証”を留められる。ただし……誰とでも結べるわけじゃない。お前だから、できるんだ」
その言葉に、煌星は目を見開いた。
「それって……」
「伝えただろう?お前は真実に俺の番だと。だからこそ、できるんだ」
息が止まったような沈黙が、ふたりのあいだに落ちる。
煌星は、見つめられたまま俯いた。
それでも首を横に振ることはなかった。
「……わかった。僕も……あなたが番なら、怖くないと思う」
景翊が小さく微笑んだ。
「それが、契りの言葉か?」
「そう、だよ……これが、僕の答え」
煌星は、目を伏せた。
でも、その沈黙が“拒絶”でないことを、景翊はもう知っていた。
そして、ふたりの影が、ゆっくりと寄り添う。
※
はじめは触れ合うだけだった。
唇と唇。頬と髪、肩と腕。
けれど、そこには最初から熱があった。
「……震えてる」
「うるさい……緊張してるんだよ……僕ははじめて、なんだから……」
小さな吐息に、景翊がくすりと笑った。
けれどその手つきは真剣だった。
煌星の髪を撫で、耳の裏をそっとなぞり、頬を包むように唇を寄せる。
ひとつ、またひとつ、言葉のない口づけが落とされる。
身体の輪郭を確かめるように、ゆっくりと、丁寧に。
「……ん、っ……」
柔らかな喘ぎが漏れ、煌星の肩がわずかに震えた。
景翊の指が衣の端にかかる。断りもなく、けれど拒絶もなく。
静かに、慎重に、衣の合わせがほどかれる。
露わになった肌に、景翊は口づけを落とした。
その熱が、染みるように深く、煌星の体に沈んでいく。
「やだ……そんなとこ……」
密やかな部分を露にされて口付けられる。
声は拒んでいても、押し返す力はなかった。
腰を撫でる掌が、じわじわと体温を奪い、そこへ新たな熱を流し込む。
「……お前が、俺を番にしたかったわけじゃないのはわかっている……。でも、もう誰にも渡さない」
息を詰めたような声だった。
その苦さに、煌星の瞳が揺れる。
「……ばか景翊。嫌いだったらしないよ……ちゃんと、番にしてよ……僕の全部に、誓ってよ……」
その囁きが合図だった。
景翊の腕が強くなる。唇が、喉のくぼみに落ちる。
胸の内側をなぞるように、呼吸の乱れが重なる。
重なる体。揺れる視線。
唇の熱、手のひらの感触。
心音が重なり、耳の奥で波のように響く。
「……ねえ、もう戻れないよ?」
「戻らせない」
それは、誓いだった。
そしてふたりは、静かに繋がっていった。
誰にも邪魔されない、夜の中で。
ただひとつの“番契約”を、肌で交わしながら。
※
明け方近く、静寂が戻った部屋で。
煌星は、景翊の胸の中で眠っていた。
その肩に、そっと布をかけながら、景翊はひとり考えていた。
(これで数日は、奴らの鼻も封じられる。……だが)
仮の契りであれ、景翊はもう、誤魔化すことができない自分に気づいていた。
この手の中にあるものが、ただの盾ではなく――愛しい、“運命”だということに。
(璃月に夢中になる景耀を嗜めていたが……なるほど、これは……)
煌星はまだ浅い眠りの中にいた。
乱れた髪を片目にかかるまま、細く呼吸を繰り返している。
その顔を、景翊はずっと見ていた。
(……こんな顔を、俺以外に見せることはない)
夜の契りは、たしかに“仮の番契約”だった。
けれど、どこまでが“仮”で、どこからが“本物”なのか――もう、わからない。
唇の端が、知らず綻ぶ。
「……ん……」
寝返りを打った煌星が、剥き出しの肩をそのままに、ぴくりと眉を寄せる。
「……あれ、ここ……」
寝ぼけた声であたりを見回し、
そして隣にいる景翊の姿に気づき――ぼうっとした顔のまま、目を細めた。
「……陛下……?」
「……ああ。起こしたか」
景翊は手を伸ばし、煌星の頬にそっと触れた。
体温の高い手のひらに、煌星が目を細める。
「……なに……?」
「可愛いと思っていた。……それだけだ」
ぼそりと囁いた声に、煌星の頬がかすかに染まった。
言葉を返す間もなく、景翊がその体をふわりと抱き寄せる。
「あ、ちょっと……!」
「昨日のだけで足りると思うな。……昨夜は“契った”。今は、“愛したい”」
そう言って、額に口づけを落としたかと思うと、すぐに喉元へ唇が滑ってくる。
肩をなぞる指先が、すでに脇腹を撫でて太ももへ降りる。
「今、朝……!」
「朝だからだ。こうして、お前が俺の腕の中にいる。……もう誰にも渡さない」
囁きとともに、景翊の手が腰を強く引き寄せる。
煌星が身を強張らせるが、拒むにはあまりにも柔らかすぎた。
「……愛って、早いよ……」
「……やめてほしいか?」
「わかんない。でも、昨日のが……まだ、全部残ってる……」
「なら、もう一度、重ねておこう。……お前は、俺の番だって」
唇が肌に触れるたび、体がびくりと反応する。
煌星は、胸に額を押しつけ、抗議の代わりに小さな呻きをこぼした。
やがて、動き出す腕を、もう止める者はいなかった。
その朝、ふたりはもう一度、深く交わった。
昨日とは違う――
けれど、同じくらい、いや、それ以上に熱く。
真に“愛しい”という感情だけが、そこには満ちていた。