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三十五、契りの証、選ぶ覚悟

月花殿の灯が落ち、宴は名目上の終わりを迎えていた。


だが、煌星の心にはまるで終わりが訪れていなかった。


薄紅の衣のまま、寝台にも座れず、ただ静かに卓へ向かって香を整える。

器に指先を滑らせ、ひとつずつ香木を選ぶたびに、頭の中に別の言葉が浮かぶ。


(“璃月ではない”と知られたら、父が……)


太傅・蘇天佑。

煌星の父であり、双子の姉・璃月を貴妃として後宮に送り込んだ家の主。


そして今、その璃月の代わりを務める自分の存在が、危うい均衡の上にある。


(でも……“皇帝の番”じゃないと、思われてる)


香を焚いても、胸の奥の焦燥は少しも晴れない。

逃げるわけにはいかない。

けれど、立っていることすら危うい。


そのとき、ふいに扉が音もなく開いた。


「……景翊」


入ってきたのは、月明かりを背負った景翊だった。

そのまま黙って煌星へ歩み寄ると、無言で抱き締めてきた。


「……っ、なに……」

「帰れ」


短く、けれど強い声。

抱き寄せた腕に、迷いはなかった。


「これ以上は危険だ。今夜の様子を見て、宰相も景恒も次の一手を打ってくる。お前は……ここにいては壊される」


「……帰れって、言った? 僕に、今さら」


煌星は景翊の胸を軽く押し返した。

その目には、怒りではなく、悔しさがにじんでいた。


「帰ったら、全部終わるんだよ。僕が璃月じゃないって、誰かに突き止められたら、父が潰される。……皇帝が偽者って話にされたら、あなたも……!」


「……」

「逃げられないよ。逃げないって決めて来たんだ、僕は」


景翊はその言葉を聞いて、静かに目を伏せた。

そして、ふたたび顔を上げる。

その瞳は、もう揺れていなかった。

やがて、景翊は煌星の頬に手を添え、言った。


「……なら、俺と契れ」

「……え?」


「お前が“俺の番”として記されれば、誰も手を出せなくなる。“鳳華”が他の龍血に反応することは、決してない。“番”がいる限りは」


煌星の呼吸が止まりそうになる。

それは、逃げ道ではなく、覚悟を迫る提案だった。


「……でも僕は今、発情期じゃない……そんな状態で」

「俺は“皇族の龍血”だ。一時でも、契れば――誰にも嗅ぎ分けられぬ“絆”が残る」

「……そんな、本当に……」

「できる。俺の血なら、数日だけでも“番の証”を留められる。ただし……誰とでも結べるわけじゃない。お前だから、できるんだ」


その言葉に、煌星は目を見開いた。


「それって……」

「伝えただろう?お前は真実に俺の番だと。だからこそ、できるんだ」


息が止まったような沈黙が、ふたりのあいだに落ちる。

煌星は、見つめられたまま俯いた。

それでも首を横に振ることはなかった。


「……わかった。僕も……あなたが番なら、怖くないと思う」


景翊が小さく微笑んだ。


「それが、契りの言葉か?」

「そう、だよ……これが、僕の答え」


煌星は、目を伏せた。

でも、その沈黙が“拒絶”でないことを、景翊はもう知っていた。


そして、ふたりの影が、ゆっくりと寄り添う。



はじめは触れ合うだけだった。

唇と唇。頬と髪、肩と腕。

けれど、そこには最初から熱があった。


「……震えてる」

「うるさい……緊張してるんだよ……僕ははじめて、なんだから……」


小さな吐息に、景翊がくすりと笑った。

けれどその手つきは真剣だった。

煌星の髪を撫で、耳の裏をそっとなぞり、頬を包むように唇を寄せる。

ひとつ、またひとつ、言葉のない口づけが落とされる。

身体の輪郭を確かめるように、ゆっくりと、丁寧に。


「……ん、っ……」


柔らかな喘ぎが漏れ、煌星の肩がわずかに震えた。

景翊の指が衣の端にかかる。断りもなく、けれど拒絶もなく。

静かに、慎重に、衣の合わせがほどかれる。

露わになった肌に、景翊は口づけを落とした。

その熱が、染みるように深く、煌星の体に沈んでいく。


「やだ……そんなとこ……」


密やかな部分を露にされて口付けられる。

声は拒んでいても、押し返す力はなかった。

腰を撫でる掌が、じわじわと体温を奪い、そこへ新たな熱を流し込む。


「……お前が、俺を番にしたかったわけじゃないのはわかっている……。でも、もう誰にも渡さない」


息を詰めたような声だった。

その苦さに、煌星の瞳が揺れる。


「……ばか景翊。嫌いだったらしないよ……ちゃんと、番にしてよ……僕の全部に、誓ってよ……」


その囁きが合図だった。

景翊の腕が強くなる。唇が、喉のくぼみに落ちる。

胸の内側をなぞるように、呼吸の乱れが重なる。

重なる体。揺れる視線。

唇の熱、手のひらの感触。

心音が重なり、耳の奥で波のように響く。


「……ねえ、もう戻れないよ?」

「戻らせない」


それは、誓いだった。

そしてふたりは、静かに繋がっていった。

誰にも邪魔されない、夜の中で。

ただひとつの“番契約”を、肌で交わしながら。



明け方近く、静寂が戻った部屋で。

煌星は、景翊の胸の中で眠っていた。


その肩に、そっと布をかけながら、景翊はひとり考えていた。


(これで数日は、奴らの鼻も封じられる。……だが)


仮の契りであれ、景翊はもう、誤魔化すことができない自分に気づいていた。

この手の中にあるものが、ただの盾ではなく――愛しい、“運命”だということに。


(璃月に夢中になる景耀を嗜めていたが……なるほど、これは……)


煌星はまだ浅い眠りの中にいた。

乱れた髪を片目にかかるまま、細く呼吸を繰り返している。

その顔を、景翊はずっと見ていた。


(……こんな顔を、俺以外に見せることはない)


夜の契りは、たしかに“仮の番契約”だった。

けれど、どこまでが“仮”で、どこからが“本物”なのか――もう、わからない。

唇の端が、知らず綻ぶ。


「……ん……」


寝返りを打った煌星が、剥き出しの肩をそのままに、ぴくりと眉を寄せる。


「……あれ、ここ……」


寝ぼけた声であたりを見回し、

そして隣にいる景翊の姿に気づき――ぼうっとした顔のまま、目を細めた。


「……陛下……?」

「……ああ。起こしたか」


景翊は手を伸ばし、煌星の頬にそっと触れた。

体温の高い手のひらに、煌星が目を細める。


「……なに……?」

「可愛いと思っていた。……それだけだ」


ぼそりと囁いた声に、煌星の頬がかすかに染まった。

言葉を返す間もなく、景翊がその体をふわりと抱き寄せる。


「あ、ちょっと……!」

「昨日のだけで足りると思うな。……昨夜は“契った”。今は、“愛したい”」


そう言って、額に口づけを落としたかと思うと、すぐに喉元へ唇が滑ってくる。

肩をなぞる指先が、すでに脇腹を撫でて太ももへ降りる。


「今、朝……!」

「朝だからだ。こうして、お前が俺の腕の中にいる。……もう誰にも渡さない」


囁きとともに、景翊の手が腰を強く引き寄せる。

煌星が身を強張らせるが、拒むにはあまりにも柔らかすぎた。


「……愛って、早いよ……」

「……やめてほしいか?」

「わかんない。でも、昨日のが……まだ、全部残ってる……」

「なら、もう一度、重ねておこう。……お前は、俺の番だって」


唇が肌に触れるたび、体がびくりと反応する。

煌星は、胸に額を押しつけ、抗議の代わりに小さな呻きをこぼした。

やがて、動き出す腕を、もう止める者はいなかった。


その朝、ふたりはもう一度、深く交わった。

昨日とは違う――

けれど、同じくらい、いや、それ以上に熱く。


真に“愛しい”という感情だけが、そこには満ちていた。


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