景翊の寝息がすぐ隣にある。
その温もりが、確かに彼の中の何かを安堵させていた。
だが同時に、胸の奥には重く張り詰めた緊張が残っていた。
(これは、“仮の契約”……でも、これで少しは……)
心を落ち着かせようと、静かに息を吐いた。
だが、その時だった。
「……貴妃様宛に、沈建業殿より書簡が」
柳蘭の声。
煌星が寝台を離れ、帳の外に出ると、そこには魏嬪と柳蘭が立っていた。
魏嬪の顔には、いつも以上に険しい色が浮かんでいる。
「中身は……?」
「直接お読みいただいた方がよろしいかと」
手渡された文には、確かに宰相・沈建業の印。
筆跡は堂々としている。
だが、そこに記されていた内容は――
“貴妃が、皇帝陛下の正当なる番である証左として、紋の顕現を願う”
煌星は、息を止めた。
魏嬪が唇を引き結ぶ。
「……つまり、“番の証”を見せろと。官僚の前で、正殿にて」
「不敬にも程があります」
怒りを隠そうともしない魏嬪。
だが、その隣で、煌星は視線を文から外さず、黙っていた。
「……あいつ、そこまでやるんだ。宦官や女官に調べさせるわけではなく、官僚の前で、ね……昨日のが余程堪えたのかな?」
「貴妃様……これは明らかに挑発です。政治の名を借りた、名誉への冒涜です」
魏嬪の言葉は正しい。
高貴なる妃の肌を晒せと言うのは、それだけで尋常ではない。
ましてやそれが“璃月”への要請ともなればさらに事態は深刻だ。
“煌星”であれば、機能は違うと言っても同じ性ではある。
しかし、“璃月”は違う。
だが――
「……なら、応じてやればいい」
その一言に、魏嬪も柳蘭も言葉を失った。
「貴妃様……?」
「僕が逃げれば、“やはり偽物だ”ってなるんでしょ? だったら……証を見せて、黙らせる」
「しかし、それは……あまりにも……」
「……僕は、璃月じゃない。でも……“皇帝の番”ではある。なら、それを見せればいい。全員の前で見せてやるよ」
その目に、迷いはなかった。
魏嬪が静かに頭を垂れる。
「……正殿には、明日の辰の刻に重臣を集めると書かれております。貴妃様、ご準備を致しましょう。とびきり美しく、清楚に」
煌星は頷いた。
魏嬪が去った後、煌星は寝台に戻る。
景翊はすでに目を覚ましていた。
「聞いていたんだよね?」
「……ああ」
景翊はゆっくりと身を起こすと、煌星の肩を抱いた。
「……すまない。俺が怒るべきなのに、お前に決意させてしまった」
「ううん……これは僕の戦いだから。ま、璃月ならもっと酷いと思うよ。あんな顔して苛烈なところあるからね」
おどけたように煌星がいうと、景翊はその額に口付けを落とす。
「……俺も一緒に行く」
「当然だよ、陛下」
その時の煌星の微笑は、確かに“璃月”のそれだった。
※
朝陽が昇る頃、宝華殿を発った貴妃と皇帝の一行は、正殿へと向かっていた。
煌星は美しい絹の薄衣を羽織り、慎ましやかに景翊の隣を歩いた。
その姿は、いつもの可憐な“貴妃・璃月”そのものだった。
「……ここで全部、終わらせてやる」
胸の内で、静かにそう呟いた。