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三十七、真の印、崩れゆく策

正殿――朝の光が障子越しに射し込み、厳かな空気が満ちていた。

文官・武官の重臣たちが円座に並ぶ中、皇帝と貴妃が歩を進める音だけが殿に響く。

煌星は薄布の下に重ねた衣を慎ましく整え、視線は一点も乱れなかった。


“璃月”としての役目。

“煌星”としての意志。

そのどちらも、今ここで証さねばならない。


玉座へ至る階を景翊と共に昇り切ると、沈建業が一歩前へ進み出た。


「陛下、貴妃様。ご足労、誠に恐れ入ります。……本日、貴妃様にお越しいただいたのは他でもありません」


彼は恭しく頭を下げながら、しかしその眼差しは冷ややかで、嘲さえも滲ませていた。


「昨日の月宴の折より、“貴妃様が皇帝陛下の真なる番ではない”との疑念が、朝廷内に渦巻いております」


一部の官僚たちがざわりと息を呑む。


「ついては――」


沈が口元に手を当て、慎重に言葉を選ぶふうで言い放つ。


「陛下と貴妃様が“真の契り”を交わされたという証左を……“番の印”として、拝見させていただきたく存じます」


殿内に、ひときわ重い沈黙が落ちた。


「……それは……流石に、不敬では?貴妃様は現在、我が国でも女性の頂点に立たれる方ですぞ……」


武官のひとりが眉をひそめて言った。

その声に、ほかの者たちも戸惑いの色を浮かべ、頷く。


(……一枚岩ではない、か……寧ろ、宰相の方に批判的な目が入っている可能性もあるな……)


煌星は伏せ目がちに官僚たちを見つめていた。

景翊が静かに声を上げる


「番の印とは、鳳華の背に浮かぶ、龍紋の痕……それを、官僚の前で見せよと?」


沈建業は微笑を崩さず、手を組んだまま応じる。


「それほどの地位にある方であればこそ、潔白を示していただかねば、今後の朝廷の均衡に関わりますゆえ」


その言葉に、景翊が一歩前へ進んだ。


「……“璃月”に疑いをかけるばかりか、その身を晒せと命ずるのが、宰相の礼か?」

「陛下。疑いを払うのに、最も手っ取り早いのは“証明”です」


その瞬間、煌星がそっと前に出た。


「……陛下、構いません。憂国の宰相様に、私の証をお見せしましょう」


周囲がどよめく。

魏嬪がわずかに動こうとしたが、煌星が静かに手で制した。


「私が“皇帝の番”であること。それが真実であるなら、背に“紋”があるはず……というのであれば、それを見せればよろしいのですわ」


景翊がその横顔を見つめ、微かに息を呑む。


「……璃月」


その名を呼ぶ声に、煌星はひとつ、頷いた。


「陛下。どうぞ」


煌星は景翊の前に立ち、背を向けた。

緋色の衣が、ゆっくりとほどかれてゆく。

その衣を脱がしていくのは、景翊自身だった。

一枚ずつ、慎重に、そして恭しく絹を滑らせ、煌星の背をあらわにしていく。

殿内が、息を止めたように静まった。


そして――


煌星の背に、淡く、しかし明確な紋様が浮かび上がっている。

白い肌に、龍の輪郭が、金色のかすかな光を帯びて揺れていた。


「……まさか」

「これは……“契約の紋”……間違いない……」


さざ波のように、驚きと動揺が広がっていく。

沈建業の顔がこわばった。


「そ、それは……描いたのでは……!?」


誰かがくすくすと笑う声がした。


「こんな精緻な紋を、絵で描けるとお思いか?」

「宰相、今さらそれは無粋というものです」


口々にあがる声。

だが、沈建業は食い下がった。


「では、証拠として、その痕が“偽物”でないと、誰が保証いたしましょうか!」


その言葉に、景翊の視線が鋭く光る。


「ならば――宰相自ら、確かめてみよ」

「……なに?」


景翊が一歩進み出て、明確に言い放った。


「貴妃の肌を、宰相が“その目と手で”確かめればいい。触れ、なぞり、その痕が描かれたものでないかどうか、試してみよ」


沈建業の顔が一瞬引きつった。

それはつまり、死刑宣告のようなものだった。


「そ、それは……さすがに……」

「貴妃の背を“偽物だ”と言い張ったのは、宰相であろう?」


静まり返る殿内の中で、沈建業の足音が重く響いた。

煌星は背を伸ばし、逃げる素振りも見せない。

前方には景翊が立ち、その視線は沈のすべてを見据えていた。


沈建業が震える手で、煌星の背へと手を伸ばした。


指が、龍紋の中心に触れる。

その瞬間――


「熱っ……!」


沈の手が跳ねた。

龍紋が、触れた指先に熱を持って、弾いたのだ。


「……これは……“描いた”ものではない……っ……」


どよめきが広がる。

景翊は、すっと煌星の背に布をかけ直すと、玉座の正面に立った。


「宰相が、皇帝の正妃の肌に直接触れた。しかも、“偽物”と罵った。さて、この償いはどうするつもりか?」

「そ、それは……っ」

「陛下の妃たる者を貶め、侮辱し、身体に触れる。……これ以上の非礼があるか」


沈建業は膝をついた。


「……不敬、痛み入ります。浅慮でした……」

「宰相たる者が“浅慮”では困る。示しが付かんだろう?……貴様の“真意”は見えたが、ここにいる者すべての目にも焼きついたはずだ」


景翊の言葉に、沈は伏せたまま動けなかった。

煌星は静かに身を戻す。


「……ご覧になりましたわね。これが、“真の番”の証」


その声音は、凛として澄んでいた。


「今後、軽々に“偽物”とお呼びになるのは、ご遠慮いただきたく……」


重臣たちが一斉に頭を下げる。

それはもはや、“疑い”に対する礼ではなかった。

“真なる貴妃”――その証明に対する、畏敬の礼だった。



宝華殿に戻った煌星は、ようやく息をついた。

ほんの数時間。けれど長い一日だった。

誰の目もない場所で、ようやく肩の力が抜ける。

その背に、静かに抱き寄せる腕が回された。


「……すまなかった」


景翊が後ろで落とした。

その声は低く、硬く、そして――どこか痛みを滲ませていた。


「俺が、お前を晒させた。……貴妃を、官僚の前で立たせてしまった。許してくれとは言わない」

「大袈裟だよ」


煌星は振り向きもせず、そう答えた。


「だって、僕は“璃月”じゃない。僕が晒されたって、別に……何も減らない。市井で店を構えるってのはそれなりに鍛えられるからね。半裸くらいどうってことはないよ」


それを冗談のように言う声が、逆に胸を刺した。

景翊は言葉を失ったまま、抱きしめる腕に力をこめた。


(璃月じゃない。……だが、俺にとっては、唯一の番なんだ)


「……お前が、俺の番で良かった。生半可な人間には務まらない」


その一言に、煌星がふと肩をすくめる。


「あのさぁ。景翊、なんか僕に甘くなってない?言っとくけど、確かに景翊とは契ったけど、恋人同士とかじゃないからね」

「それは、また手強いな……口説き直しか?」

「……口説いてたっけ?いっつも偉そーにしてただけだよ」


そう言って、煌星がようやく振り返る。

その笑みは、今日どれだけのものを呑み込んできたかを知っている者にしか、向けられない笑みだった。

景翊は、思わずその口端に口づけた。


(この手で、誰がなんと言おうと――守ろう)


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