正殿――朝の光が障子越しに射し込み、厳かな空気が満ちていた。
文官・武官の重臣たちが円座に並ぶ中、皇帝と貴妃が歩を進める音だけが殿に響く。
煌星は薄布の下に重ねた衣を慎ましく整え、視線は一点も乱れなかった。
“璃月”としての役目。
“煌星”としての意志。
そのどちらも、今ここで証さねばならない。
玉座へ至る階を景翊と共に昇り切ると、沈建業が一歩前へ進み出た。
「陛下、貴妃様。ご足労、誠に恐れ入ります。……本日、貴妃様にお越しいただいたのは他でもありません」
彼は恭しく頭を下げながら、しかしその眼差しは冷ややかで、嘲さえも滲ませていた。
「昨日の月宴の折より、“貴妃様が皇帝陛下の真なる番ではない”との疑念が、朝廷内に渦巻いております」
一部の官僚たちがざわりと息を呑む。
「ついては――」
沈が口元に手を当て、慎重に言葉を選ぶふうで言い放つ。
「陛下と貴妃様が“真の契り”を交わされたという証左を……“番の印”として、拝見させていただきたく存じます」
殿内に、ひときわ重い沈黙が落ちた。
「……それは……流石に、不敬では?貴妃様は現在、我が国でも女性の頂点に立たれる方ですぞ……」
武官のひとりが眉をひそめて言った。
その声に、ほかの者たちも戸惑いの色を浮かべ、頷く。
(……一枚岩ではない、か……寧ろ、宰相の方に批判的な目が入っている可能性もあるな……)
煌星は伏せ目がちに官僚たちを見つめていた。
景翊が静かに声を上げる
「番の印とは、鳳華の背に浮かぶ、龍紋の痕……それを、官僚の前で見せよと?」
沈建業は微笑を崩さず、手を組んだまま応じる。
「それほどの地位にある方であればこそ、潔白を示していただかねば、今後の朝廷の均衡に関わりますゆえ」
その言葉に、景翊が一歩前へ進んだ。
「……“璃月”に疑いをかけるばかりか、その身を晒せと命ずるのが、宰相の礼か?」
「陛下。疑いを払うのに、最も手っ取り早いのは“証明”です」
その瞬間、煌星がそっと前に出た。
「……陛下、構いません。憂国の宰相様に、私の証をお見せしましょう」
周囲がどよめく。
魏嬪がわずかに動こうとしたが、煌星が静かに手で制した。
「私が“皇帝の番”であること。それが真実であるなら、背に“紋”があるはず……というのであれば、それを見せればよろしいのですわ」
景翊がその横顔を見つめ、微かに息を呑む。
「……璃月」
その名を呼ぶ声に、煌星はひとつ、頷いた。
「陛下。どうぞ」
煌星は景翊の前に立ち、背を向けた。
緋色の衣が、ゆっくりとほどかれてゆく。
その衣を脱がしていくのは、景翊自身だった。
一枚ずつ、慎重に、そして恭しく絹を滑らせ、煌星の背をあらわにしていく。
殿内が、息を止めたように静まった。
そして――
煌星の背に、淡く、しかし明確な紋様が浮かび上がっている。
白い肌に、龍の輪郭が、金色のかすかな光を帯びて揺れていた。
「……まさか」
「これは……“契約の紋”……間違いない……」
さざ波のように、驚きと動揺が広がっていく。
沈建業の顔がこわばった。
「そ、それは……描いたのでは……!?」
誰かがくすくすと笑う声がした。
「こんな精緻な紋を、絵で描けるとお思いか?」
「宰相、今さらそれは無粋というものです」
口々にあがる声。
だが、沈建業は食い下がった。
「では、証拠として、その痕が“偽物”でないと、誰が保証いたしましょうか!」
その言葉に、景翊の視線が鋭く光る。
「ならば――宰相自ら、確かめてみよ」
「……なに?」
景翊が一歩進み出て、明確に言い放った。
「貴妃の肌を、宰相が“その目と手で”確かめればいい。触れ、なぞり、その痕が描かれたものでないかどうか、試してみよ」
沈建業の顔が一瞬引きつった。
それはつまり、死刑宣告のようなものだった。
「そ、それは……さすがに……」
「貴妃の背を“偽物だ”と言い張ったのは、宰相であろう?」
静まり返る殿内の中で、沈建業の足音が重く響いた。
煌星は背を伸ばし、逃げる素振りも見せない。
前方には景翊が立ち、その視線は沈のすべてを見据えていた。
沈建業が震える手で、煌星の背へと手を伸ばした。
指が、龍紋の中心に触れる。
その瞬間――
「熱っ……!」
沈の手が跳ねた。
龍紋が、触れた指先に熱を持って、弾いたのだ。
「……これは……“描いた”ものではない……っ……」
どよめきが広がる。
景翊は、すっと煌星の背に布をかけ直すと、玉座の正面に立った。
「宰相が、皇帝の正妃の肌に直接触れた。しかも、“偽物”と罵った。さて、この償いはどうするつもりか?」
「そ、それは……っ」
「陛下の妃たる者を貶め、侮辱し、身体に触れる。……これ以上の非礼があるか」
沈建業は膝をついた。
「……不敬、痛み入ります。浅慮でした……」
「宰相たる者が“浅慮”では困る。示しが付かんだろう?……貴様の“真意”は見えたが、ここにいる者すべての目にも焼きついたはずだ」
景翊の言葉に、沈は伏せたまま動けなかった。
煌星は静かに身を戻す。
「……ご覧になりましたわね。これが、“真の番”の証」
その声音は、凛として澄んでいた。
「今後、軽々に“偽物”とお呼びになるのは、ご遠慮いただきたく……」
重臣たちが一斉に頭を下げる。
それはもはや、“疑い”に対する礼ではなかった。
“真なる貴妃”――その証明に対する、畏敬の礼だった。
※
宝華殿に戻った煌星は、ようやく息をついた。
ほんの数時間。けれど長い一日だった。
誰の目もない場所で、ようやく肩の力が抜ける。
その背に、静かに抱き寄せる腕が回された。
「……すまなかった」
景翊が後ろで落とした。
その声は低く、硬く、そして――どこか痛みを滲ませていた。
「俺が、お前を晒させた。……貴妃を、官僚の前で立たせてしまった。許してくれとは言わない」
「大袈裟だよ」
煌星は振り向きもせず、そう答えた。
「だって、僕は“璃月”じゃない。僕が晒されたって、別に……何も減らない。市井で店を構えるってのはそれなりに鍛えられるからね。半裸くらいどうってことはないよ」
それを冗談のように言う声が、逆に胸を刺した。
景翊は言葉を失ったまま、抱きしめる腕に力をこめた。
(璃月じゃない。……だが、俺にとっては、唯一の番なんだ)
「……お前が、俺の番で良かった。生半可な人間には務まらない」
その一言に、煌星がふと肩をすくめる。
「あのさぁ。景翊、なんか僕に甘くなってない?言っとくけど、確かに景翊とは契ったけど、恋人同士とかじゃないからね」
「それは、また手強いな……口説き直しか?」
「……口説いてたっけ?いっつも偉そーにしてただけだよ」
そう言って、煌星がようやく振り返る。
その笑みは、今日どれだけのものを呑み込んできたかを知っている者にしか、向けられない笑みだった。
景翊は、思わずその口端に口づけた。
(この手で、誰がなんと言おうと――守ろう)