正殿での一件から半日。
沈建業は拘束され、王宮の北棟にある仮牢へと幽閉されていた。
そこは元々、重臣や高位の者が罪を問われた際、一時的に身柄を留めるための場所である。
寒々しい石壁と、揺れる灯だけが彼を迎えていた。
「……まさか、あんな印が……」
沈建業は独り言のように呟きながら、牢の中で静かに座していた。
彼の顔には、敗北の色は濃い。
しかしその目は、なお完全に諦めたものではなかった。
※
一方、宝華殿では煌星が牀の端に座っていた。
後ろには当たり前のように景翊が横になっている。
一旦、政務に戻った景翊ではあったが、夜になるとやはり煌星の元に現れた。
昨日の今日で気恥ずかしさもあるが、そばにいてくれるのが嬉しくもある。
けれど、そんな気持ちとはうらはらに煌星の心は静まることはなかった。
今日一日で背負ったものの重さを思い返せば、今さらになって肩へとそれらが圧し掛かってくる。
(まあ、でも……これで少しは相手側の力を削げたかな……?)
全容がわかってない以上、今回のことがどう作用するかはいまいち読みきれない。
けれど沈が軽々しい立場でないことは、その身分を見ても動きを見ても推測はできる。
だとすれば少しは、と煌星は息を吐いた。
そんな時だった。
「……陛下がお目覚めになられたと」
魏嬪が扉を叩くこともなく、そっと告げた。
煌星と景翊は、同時に顔を上げる。
「……景耀が?」
「はい。意識が戻られたとのこと。ご案内いたします」
ふたりはすぐに身を整え、長い廊下を抜けて蘭台宮へと向かった。
かつて景耀と景翊が幼いが日々を過ごした場所。
その奥の寝所に、ようやく眠りから覚めた“帝”がいた。
そこには、医官と数名の侍女が控えていたが、部屋は静かだった。
牀の上、景耀は枕元からこちらを見ていた。
意識は戻っていても、まだ顔色は浅く、けれどその眼差しには確かな理性が宿っている。
「……兄上……」
景翊が近づき、静かに名を呼ぶ。
景耀は微かに目を細め、次に視線を煌星へと向けた。
そして、小さく呟いた。
「……私の璃月と……似ているな」
その一言に、空気が止まったような気がした。
けれど次の瞬間――
「は? 私、こんな優柔不断じゃないわよ」
奥から現れた璃月が眉をしかめて声を上げる。
続けて、煌星も眉を寄せながら言った。
「僕はこんなじゃじゃ馬じゃないからね」
部屋の空気が一瞬にして柔らかくなった。
「……そうか」
景耀がわずかに笑い、瞼を伏せた。
景翊はその様子を見て、小さく息を吐く。
璃月がゆっくりと景耀に歩み寄り、その枕元に膝をつく。
「……ごめんなさい。私が、ちゃんとあちらに居られなくて」
「……いや……私のそばに居てくれて嬉しく思うよ、璃月……」
景耀の言葉は、淡く、けれど芯があった。
そして、再び煌星の方へ目を向ける。
「……君が、守ってくれたのだな」
煌星はきちんと姿勢を正して、膝をついた。
「僕はただ……璃月の代わりに立っていただけです」
「それでも、あの殿で、沈建業の言葉を正面から受け止めたのだろう?魏嬪から聞いているよ」
景耀の瞳が、景翊に向けられる。
「……弟よ。私の代わりに、よく国を守ってくれた。……そして、この者を番に選んだのだな」
景翊は頷いた。
「当たり前の事だ。生憎、まだ煌星は口説いている途中なんだ。でも俺が選んだ唯一だ」
その声には、迷いは一片もなかった。
「……ならば、私から言うことは何もないよ」
景耀は枕に頭を預け、静かに目を閉じる。
「……後は、私の役目を全うしないとな……それにお前のことも……」
「……兄上?」
「もう少しだけ眠らせてくれ……お前たちの顔が見られたことで、心が落ち着いた。宰相のことは、また話そう」
景翊と煌星が互いに目を見交わす。
煌星は寝所を出る間際、最後に一度だけ振り返った。
寝台の中で、景耀は眠っているようで、口元だけはかすかに微笑んでいた。
璃月もまた寄り添って微笑んでいた。
※
殿を出たあと、煌星は緊張の糸をほどくように、小さく息を吐いた。
「……少しだけ、片付いたよね?」
「そうだな。少しだけ」
景翊がそっと手を差し出す。
煌星はその手を取り、小さく笑った。
「でも、これは“始まり”でもあるんだよね?」
「沈がああなった以上、更に仕掛けてくるだろうな……大丈夫か?」
「もちろん」
その言葉に、煌星は頷いた。
柔らかい提灯の光が降り注ぐ中、ふたりの影が寄り添って、蘭台宮を後にした。