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三十九、静かなる牙、夜に育つ影

王宮に、再び平穏が訪れたように見えた。

けれどそれは、あくまで仮初めのもの。

煌星が番の証を示し、宰相・沈建業が失脚したとはいえ、すべてが終わったわけではない。

景耀は依然として表舞台に立てず、皇帝の座には景翊が“影武者”として座り続けていた。


(……この均衡は、いつまで保てるだろうか)


景翊は、玉座の背後で灯る蝋燭の炎を眺めながら思う。

景耀の容体は安定しているが、復帰はまだ先。

景翊自身も、偽りの帝位という立場にありながら、常に宰相陣営の視線を受け流し続けていた。


「……陛下、魏嬪様にございます」


侍女の声に、景翊は軽く頷く。

魏嬪が静かに部屋へ入り、文を差し出した。


「蘭台宮よりです。景耀陛下は本日、庭を少し歩かれたそうです。まだお声は長く出せませんが、意識もはっきりされ、璃月様と過ごされております」

「そうか……璃月がいてくれて、助かる」


魏嬪は微笑み、続けて一枚の小さな包みを差し出した。

中に入っていたのは、白い折鶴。

簡素なものだが、どこか優しさが宿っている。


「幼い頃、璃月様と煌星様が交わしていた“元気のしるし”だそうです。何も語らずとも、無事を伝える“言葉”とのこと」


景翊は折鶴をしばし見つめ、そっと卓の端に置いた。


「……兄上の帰還が近いなら、こちらも急がねばならない」


魏嬪が頷いた。


「ええ、“錦麟衛”の布石を整えましょう」



後宮の一隅──宝華殿。

帳の外は静かで、遠くで風がかすかに鳴っている。

煌星は卓に肘をつきながら、景翊の手元に広げられた書簡に目を落とした。


「……これ、初めて見る組織だね……?あったっけ?」


手元の紙には、筆で書かれた試案の文字列が並んでいた。

その一枚に煌星が指を添えると、景翊は筆を止めた。


「ああ。錦麟衛だ。まだ正式な布令じゃない。ただの構想ではあるがな」

「……衛って、軍?」

「軍というより、目と耳だな。後宮も王宮も、宰相派の目が張り巡らされている。景耀兄上の件で、さすがに放置できなくなった」


景翊は椅子の背にもたれ、静かに息を吐く。


「魏嬪が中心になって、医官や女官の中から信頼の置ける者を選んで動かしている。今のところ名もない組織だったが……名は必要だと思った」

「それが……錦麟衛?」

「錦のように華やかで、麟のように潔くあれ、という意味だ。私兵ではなく、いずれ“国の中枢を守る存在”にしたい」


煌星はしばらく黙っていたが、やがて微かに笑った。


「かっこいいな。響きも綺麗だし、おとぎ話に出てきそうだね」


景翊も口元をゆるめる。


「……お前に褒められると、悪くない気がする」

「ばか。……でも、そうか。僕がここに来たときより、ずっと周りも動いてるんだね」


煌星は改めて文に目を戻し、その先の未来を見据えるように呟いた。

そんな煌星の前に、景翊が小さな鶴が乗っている文を差し出した。


「あ」

「わかるのか?」

「うん。璃月からでしょ?懐かしいなぁ……」


懐かしさに思わず指でなぞった煌星の横顔を、景翊が静かに見つめていた。


(……璃月が無事なら、それでいい。じゃあ、僕の役目は――)


「そろそろ僕も、お役御免かな。店にも戻らないと」


ぽつりと零した言葉。

自分の胸のうちを吐き出したというより、ただ空気に溶かすように言っただけだった。


けれど――


「……離すわけがない」


突然、背後から強く抱きしめられた。

立ち上がった景翊の腕がしっかりと煌星を捉える。


「景翊……」

「いい加減、逃げるな」


その言葉に、煌星は眉をひそめた。


「別に、逃げてるつもりなんか……ないよ。ただ……そろそろ」

「本気だ」


遮るように囁かれる。

耳の奥に落ちた低い声が、背筋を伝って心臓を震わせる。


「俺は、本気でお前を迎えたい。お前を番として。伴侶として。……その気がないなら、今、振りほどけ」


煌星は、腕の中で少しだけ動こうとして、止まった。

そのまま、ふうと息を吐いて、肩を預ける。


「……ずるいな。そんなこと言われたら、振り解けない……」


景翊が、抱き寄せた手に力を込める。


「じゃあ、もっと捉えるために刻まないとな」


唇が、頬に、額に、首筋に触れる。

指が衣の合わせを外しながら、静かに問うように撫でていく。


「……っあ。……仮番の安定のため、でしょ……?」


そう言いながらも、煌星の声は震えていた。

心がではない、身体が――番の接触に対し、自然に応じていた。


「契りを重ねれば、仮の契約は少しずつ真実へと染まる」


囁きとともに、唇が鎖骨を辿る。

煌星は片手で景翊の髪をなぞりながら、目を閉じた。


「……僕は心が狭いから、僕一人しか無理だ、よ……?」


その言葉に、景翊が微笑を浮かべた。


「安心しろ。お前一人しか、いらない」


指が重なり、熱が絡む。

夜の中、ふたりの影が再び重なっていった。



煌星は、景翊の胸に頬を寄せたまま、薄く眠っていた。


「……景翊」

「起きてる」

「……もし……いつか、僕がまた役に立てなくなったら」

「その時は、俺の番として、隣にいればいい」


その言葉に、煌星が小さく笑う。


「やっぱり、ずるいな。……ほんとに、本気なんだ」

「ああ」

「……なら、頑張るしかないね……」


その囁きを最後に、ふたりの呼吸が静かに重なっていった。

夜が、そっと幕を閉じる。


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