夜の王宮に、静かな影が落ちていた。
宦官のひとりが、人目を避けるように廊下を渡り、ひとつの文を隠し持って歩いていた。
その指先にあるのは、わずかに封の剥がれた封蝋付きの書。
――“景耀はまだ生きている。璃月もまた、城内に。”
文を受け取ったのは、南苑に居を移していた龍景恒だった。
長身の男が書簡を一読し、唇の端にわずかな笑みを浮かべる。
「……やはり、“生きて”いたか」
沈建業の失脚から数日、宰相派は息を潜めたように見えていた。
だがそれは、景恒にとっては一時の退きに過ぎなかった。
「影武者か、もしくは替え玉か。いずれにせよ――本物ではない」
景耀の回復が真であれば、それはそれで良い。
だがもし、今の皇帝が“景耀ではない”ならば――その事実を一つ暴けば、すべてが瓦解する。
景恒は筆を取り、何かを書き記すと封を施し、宦官に命じる。
「第二の“手”を動かせ。あの者――蘇家もろとも、塵に還す」
※
その頃、王宮の一角――宝華殿。
煌星は夜の帳を下ろした寝室の中、窓辺に腰掛けて夜風を感じていた。
「……ん。なんか、またざわざわしてる気がする」
帳の奥で休んでいた景翊が、身を起こす。
「どうした?」
「……なんとなく、変な空気。……でも、僕の勘はよく外れるから」
その言葉に、景翊はふと笑った。
「お前の勘は、ほとんど当たっているよ。俺の知らない“気配”を感じるからな、お前は」
煌星は頬をかすかに染めて、唇を尖らせる。
「なんか、それって“勘が鋭い動物”って言われてるみたいで、複雑……」
そこへ、魏嬪が姿を現す。
「失礼いたします。……いよいよ、錦麟衛の動きに、“反応”が出ました」
煌星が振り向き、姿勢を正す。
「宦官のひとりが、南苑の一画で不審な文を持っていたとの報告。……景耀様の容体が敵方に漏れた可能性が高いとのこと」
景翊の表情が、その報告に引き締まった。
「……兄上が再起不能でないと知った敵が、再び牙を剥いてくるだろうな」
「その恐れがあります。しかも、先ほど宰相派の一部から、“貴妃様に関する不穏な噂”が流れ始めているとの報も」
「えぇ……また僕……?」
煌星は苦笑しながらも、眼差しにかすかな疲労をにじませる。
「“男だった”とか、“替え玉だった”とか……もう飽きないのかな、ああいうの」
「お前が本物の“番”である限り、やつらはそれを崩そうと動く。……むしろ、それだけお前が脅威だという証明だ」
景翊はそう言って煌星のそばへ寄り、膝をついた。
「……でも、それが理由でまたお前が狙われることがあるなら、今度こそ躊躇なく守る。俺の番として」
その瞳に、ためらいはなかった。
煌星はわずかに目を伏せ、そっと手を伸ばして景翊の手を握った。
「……自分の身くらい、自分で守れるようにならなきゃって思ってる。けど、それでも無理な時は……絶対、頼るから」
「いいとも。お前の全部を、俺のこの手で守る」
静かに交わされた言葉。
そのすぐ背後で、魏嬪が口を開いた。
「錦麟衛に“次の指示”を。南苑の監視と、後宮内の再点検。それから――貴妃様の周囲を固めましょう」
夜が更ける。だが、牙はすでに研がれ始めていた。
次なる波は、音もなく近づいている。