夜が明ける直前、宝華殿の空気はしんと静まり返っていた。
煌星は、帳の中、ふかふかとした敷布の中で目を覚ました。
けれど、そのまま目を閉じ、しばらく微動だにしない。
(また、動きがある。……あいつら、やっぱり諦めてなかったんだ)
錦麟衛から報せを受けた昨夜の会話を思い出しながら、心の中で静かに整理を始めていた。
――景耀はまだ復帰していない。
――景翊は“影武者”として表に立ち続けている。
――自分は「貴妃・璃月」としてこの座にいるが、いずれ本物が戻ってくる。
その上で――
(僕の存在が、これからどうなるか……わかってる。仮の番。仮の妃。
でも、“仮”であっても、あの人の隣に立っている限り、敵は容赦しない)
背中の奥に、かすかに残る契りの熱を思い出す。
それは一夜ごとに淡くなるものではなく、確かに“印”として刻まれていた。
「……璃月が戻ってくるとき、僕は、どうするつもりなんだろうね」
自分自身に問いかけた言葉。
誰もいない部屋の中、静かにその響きを受け止める。
その時だった。
「起きてるのか?」
帳の外から、景翊の声がした。
煌星が驚いたように振り返ると、景翊はもう衣を整えてこちらへ向かってきていた。
「……うん。ちょっと、考えごと」
「考えごとをする顔じゃなかったな。……怖い夢でも見たか?」
煌星はふっと笑う。
「ううん。怖くはない。ただ……少しだけ、未来を想像しただけ」
景翊がそっと煌星の傍らに腰を下ろす。
その動きは静かで、けれど確かに支えを差し出すような気配に満ちていた。
「……璃月が戻ってきたら、僕はお役御免かもしれない。誰かに言われたわけじゃないけど、そんな風に思ってる自分がいる」
言葉を選びながら、けれど逃げずに口にする。
景翊はすぐには何も言わなかった。
ただ、静かに煌星の手を取り、自分の掌の中で包むように握る。
「それでも、ここまで来てくれた。あのとき“逃げない”と言ったのは、お前の意志だった。その意志を、俺は誇りに思っている」
景翊の手は温かかった。
心臓の音が、なぜか少しだけ早くなる。
「……じゃあ、僕にできることって、何だろう」
「まずは、自分を信じることだ。璃月が戻ってきても、お前の価値がなくなるわけじゃない」
「でも、周りはそう思わないかもしれないよ。あいつは偽物だったって、全部忘れて、笑ってるかもしれない」
その言葉には、自嘲にも似た響きがあった。
「ならば、俺がそう思わせない。お前は“煌星”として、俺の番として、ここにいた。その事実を消させたりはしない」
その言葉は、静かに、けれど強く胸に響いた。
「……ありがとう」
そう呟いた瞬間、涙が零れそうになって、煌星は慌てて目を伏せた。
景翊はそれを見て、何も言わず、その額にそっと唇を押し当てた。
「さて――」
しばしの沈黙の後、景翊が立ち上がり、卓上に並ぶ報告書を手に取る。
「今日から、“牙”を磨く準備に入る。宰相派は動く。だからこちらも、その牙を刺し違えられるほどに研ぎ澄まさねばならない」
「……錦麟衛を、正式に?」
「いや、まだだ。今は影のままがいい。だが、いずれ兄上が戻られたとき……すべてを公にして、“景翊”として世に出る」
煌星は、景翊の背を見上げる。
その影が、かつて見た“皇帝”よりもずっと頼もしく、誇らしく見えた。
「……そのとき、僕を忘れないでよ?」
「忘れるはずがない」
そう言って、景翊が一瞬だけ振り返り、微笑んだ。