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四十三、剣の鞘、牙の先触れ

王宮の空は凪いでいた。

だが、その静けさの下では、既に一つの剣が鞘から引き抜かれようとしていた。



錦麟衛の中枢にて。

景翊は卓に広げられた報告書に目を通していた。

その背には魏嬪と煌星。

沈黙が、張り詰めた空気となって部屋を満たす。


「……南部・豊凌県。県令の張源、景恒と内通していた証拠が出た」


魏嬪が口を開く。


「密書は錦麟衛の密偵が押収しました。彼が宮中の宦官と手を結び、蘇家領の百姓に不満を煽るよう仕組んでいた模様」


煌星が苦い表情で地図に目を落とした。


「……父上の地盤、直撃じゃないか……あのあたり、豊作だった年も多いのに。無理やり“税逃れ”の噂を立てたってこと?」

「まさしく、“火種”を撒くための芝居だ」


景翊はそう言って、文に自らの印を押した。


「これを持って、錦麟衛を動かす。南部に潜っている小隊に命じろ。張源の屋敷を即時封鎖、関係者を拘束、加えてその書記官の身柄も確保せよ」


魏嬪が軽く頷き、命を伝えに去る。

煌星はその背を見送りながら、ぽつりと呟いた。


「本当によくやるね……」

「奴らは、蘇家の力を削ぐために仕掛けた。だが狙いは“蘇家”じゃない。璃月であり、お前だ、煌星」


景翊の言葉に、煌星は目を伏せる。


「わかってるよ。……でも、やっぱり、父上に何かあったらって思うと……心がざわつくんだ」


「心が揺れるのは悪くない。だが、立ち止まるな。お前の背にあるものを、俺がすべて受ける。……だから、今は進め」


景翊の声は、静かだが確かな重さを持っていた。

煌星は深く息を吸い、頷いた。



その夜――。

南部・豊凌県の張源邸。

錦麟衛の密装束を纏った者たちが、屋根を這うように侵入した。

数人の役人が拘束され、密書が押収される。


張源は驚愕と怒号を撒き散らすが、既に周囲は錦麟衛に囲まれていた。


「これは何の真似だ!私は県令だぞ!無礼も甚だしい!」

「陛下よりの御命により、監察と逮捕を行う。……異議申し立ては、首都にて聞こう」


淡々とした声が、暗闇に響く。

錦麟衛がついに“牙”を顕した瞬間だった。



──翌日、王宮の朝。


「最近の“陛下”、妙に冴えていらっしゃる……」

「……ご存じか? どうやら、極秘裏に新たな機関が動いていると……」


そんな声が、文官たちの間に広まりつつあった。

その動きは、小さな“違和”として宮中に芽吹いていく。


宝華殿の一室で、それを耳にした煌星は、そっと窓を見上げる。


「……景耀様が戻ってきたとき、僕は璃月と変わる。その後は……」


その呟きに、背後から腕が回された。


「お前は“仮の妃”じゃない。……俺の番として、ここにいた。それは何も変わらない」


景翊の低く確かな声。

煌星は唇を引き結び、その腕に緩く頬をすり寄せた。



南苑。


景恒は、密書の回収と張源の拘束を報せる報告に目を通し、無言のままそれを焚いた。


「……動いたか、“景耀”」


だが、次の瞬間、眉をひそめる。


「いや……“景耀”にしては、あまりに速く、鋭い。まるで……全てを読み切っているかのように。あれも愚鈍ではない。が……何か、違う」


影のように控えていた宦官が、問う。


「ご懸念を?」

「……まさか、“あれ”が影武者ではないのか……?」


疑念が、静かに芽吹き始めていた。

その目の奥で、確かな焦りがちらつく。


「景耀の影だと? ――違う。“あれ”は、影ではなく、新たな“陽”だ」


王宮に、確かな胎動が始まっていた。


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