蘭台宮の庭には、秋の風が穏やかに吹いていた。
煌星は、久方ぶりにこの宮を訪れていた。
景耀と璃月の様子を見るためでもあり、ここまでの経緯を「報告」するためでもあった。
侍女に導かれ、寝所の戸が開かれる。
柔らかな光の差す部屋の奥、牀の上で背を起こした景耀が、穏やかな笑みを浮かべた。
「……璃月……いや、違うな。煌星殿か」
「はい。お加減はいかがですか、陛下」
煌星が一礼すると、景耀は小さく笑った。
「見た目はまったく同じなのに、すぐにわかる。不思議なものだな。話し方や、立ち方、それらが酷似していても、気配が……違う」
煌星も微笑み返す。
「それは、陛下と景翊殿下も同じかと。お姿は似ていても、やはり“違う”と、そばにいればこそ感じます」
「……そうか」
景耀の目が細くなる。少し懐かしむような眼差しだった。
「陛下は、こうして落ち着いて話すと、やっぱり“皇帝”なんだなと思います」
「ほう?」
「景翊殿下は……あれでけっこう、我儘ですし……僕と口喧嘩もしますよ」
その言葉に、景耀がふっと吹き出した。
「景翊が、そこまで……。なるほど、そうか。……確かに“あの弟”だな」
小さな笑いの後、景耀は静かに言葉を継いだ。
「昨日の茶会のこと……魏嬪から聞いている」
煌星は、わずかに身を引き締めた。
「は……不出来でしたら、申し訳ありません」
「いいや。むしろ、あの場に立ち、香を調え、空気を整えた。その気配は、聞かずとも伝わってくる」
景耀の視線が煌星を真っ直ぐにとらえる。
「璃月も言っていた。……弟の香には、人の心を動かす力がある、と」
煌星は息をのんだ。
(……璃月が……?)
「お前の振る舞いは、“演技”ではない。誰かの心を和らげたいという素直な意志が、空間を変える。……それは、私たちにはない力だ」
思わず、顔が熱くなる。
「……ありがとうございます。でも、ただ香を焚いただけです。そこまで大げさなものでは……」
「そう言える者ほど、価値あることをしているものだ」
景耀は、ふと顔を伏せ、肩を揺らした。
「景翊も、きっと同じように思っているだろう。あれは不器用で、真っ直ぐで……不安定だ。だが、煌星殿が支えてくれていると聞いて、私は心から安堵した」
「……支えになれているかは、わかりません。僕はまだ、間に合わせの仮の番で……」
「“仮”など、最初から存在しない。命をかけて守ろうとする者がいるなら、それが真実なのだ」
煌星は、胸の奥に小さな灯がともるのを感じた。
自分のしてきたことが、ほんのわずかでも意味を持ったのだと、ようやく実感できた。
その時、奥から璃月の声が響いた。
「陛下、そろそろ薬湯の時間ですよ。煌星もお茶、飲むでしょう?」
「私の璃月が戻ってきたようだ」
璃月が現れると、煌星は軽く頭を下げる。
「いや僕はこれで。……また、お目にかかれる日を楽しみにしております。お茶菓子、持ってきたから食べていいよ、璃月。ちゃんと安全なやつ」
璃月が小さく喜ぶのを見ながら、景耀は軽く頷き、
「そなたの香は、私の眠りを深くした。……ありがとう、煌星殿」
そう一言告げた。
煌星は黙って一礼し、襟元に残る香の余韻と共に、蘭台宮をあとにした。
※
煌星が宝華殿に戻ると、帳の中にはすでに景翊の姿があった。
珍しく静かに書を開いていたが、煌星が入った気配にすぐ顔を上げる。
「……遅かったな」
その声に、棘はない。けれど、どこか拗ねたようなものが混じっている気がした。
「蘭台宮に行ってたって、知ってるでしょ」
「知ってる。……兄上と会ったんだな」
「……うん。少しだけ、話した」
煌星が外衣を脱いで卓に置くと、景翊がわずかに眉をひそめた。
「“そなたの香は眠りを深くした”とか言われたのか?」
煌星はぴたりと動きを止めた。
「なんで知ってるのさ」
「璃月から聞いた。……兄上が、お前のことを褒めていたらしい」
「……え、なに。まさか……嫉妬してたりする?」
景翊は視線をそらしながら、ため息まじりに頭をかく。
「本気で嫉妬したわけじゃない。ただ……そうやって、お前が誰かの役に立ってるのを見ると、少し、俺だけのものじゃない気がしてくる」
「……いつからそんな独占欲の塊みたいになったの」
「最初からだ」
即答されて、煌星は目を丸くする。
「いや、でも景翊は景翊で、いろんな人から信頼されてるじゃん。陛下も魏嬪も。璃月だってそうだろ?むしろ僕の方が、まだ何も……」
「お前は、もう俺にとって“すべて”だ。誰に褒められようと、どれだけ支えられてようと、俺にとっては最初で最後の“番”だ」
静かに、しかし一切の冗談のない声だった。
煌星は少し頬を赤らめ、そっぽを向く。
「……うるさい。そんな顔で言うな。調子が狂う」
「お前が“僕には何もできない”って思うたびに、俺が腹立たしくなる。できるかできないかなんて、今さらどうでもいい。……お前が俺の隣にいること。それだけで十分なんだ」
煌星はしばらく黙っていたが、やがて、ぽつりと呟いた。
「……僕の香が誰かを癒せたなら、次は、あなたのためにも、もう一度作るよ」
景翊が軽く笑った。
「じゃあ今夜は、お前の香に包まれて眠るとするか」
「……香は炊かなくても、もう十分匂ってるくせに」
そう返しながら、煌星はそっと景翊の肩にもたれかかった。
「……でも、たまには炊いてあげるよ。ちゃんと“特別に”ね」
景翊はその肩を抱き寄せ、額に静かに口づけた。
「お前の香りで、俺を満たしてくれ」
夜がゆっくりと深まっていく。
番としての想いも、未来への不安も、香のように溶けて静かに満ちていった。