蘭台宮から戻った煌星は、自室の扉をそっと閉じた。
小さな香包を手に、卓に向かう。絹の包みをほどき、匂い袋の中身を取り出す。
──春蘭、白檀、それに……これは……
指先で微かに崩していくと、柔らかく、しかし鼻腔に残る奇妙な甘さが香った。
その奥にある、わずかな“引き”の感覚。
(……これ、精神を沈める系統の香……でも、“沈める”だけじゃない)
市井の香屋で、何度も扱った記憶がある。
人の意識に“曇り”を与える。特に、心が疲れていたり不安定な者ほど反応しやすい。
(……どうして、こんなものを)
煌星は深く息を吐くと、香材を密封し、手元の帳に一言だけ記した。
──香、意図的な操作。張嬪。
(僕に挑もうってわけか……いや張嬪からしたら“璃月”だろうけどね。本当に、度胸は一人前だなぁ)
ゆるく息を吐き出して、煌星は目を閉じる。
(それなら、まあ……受けて立つのが“貴妃”だろうな)
瞼を開けた瞳には、強い意思が宿っていた。
翌日、後宮の回廊を歩きながら、煌星は心を定めていた。
(番の隣に立つなら、“仮”でも“飾り”でもいたくない。だったら、動く)
名目は“見舞い”と称し、まず沈才人の部屋を訪ねた。
「……あら、貴妃様。めずらしくおひとりで」
「ええ。実家から珍しい果物が届きましたから、皆様にお裾分けを持ってきましたのよ。……張嬪様から頂いた香は、良い香りですわね?もうお使いになった?」
「ええ、はい。なんでも、安眠できるとかお聞きしましたわ……あ、でも、夜に少し夢見が悪かったような」
その言葉に、煌星は微かに頷いた。
次に向かったのは柳美人。
「貴妃様……まあ、ありがとうございます。香、ですか? 私は好きですわ、あれ。眠る前に焚くと、ふわっと……」
「ふわっと?」
「ええ、少し浮くような気分になりますの」
(それ……軽い幻覚作用起きてるじゃないか……)
最後に、張嬪のもとへ。
「まあ、貴妃様。わざわざどうも。私の香りはお気に召しまして?」
張嬪はいつものようににこやかだったが、その笑みに緊張の影があった。
「とても興味深い香りでしたわ。……ご自身で選ばれたの?」
「ええ、たまたま手に入りましたの。貴妃様にはきっとお分かりでしょう?」
(……配合は言わない、か。わざとらしいな)
煌星は柔らかく笑ったまま、静かに目を伏せた。
「香は、記憶を呼びますものね。心を落ち着けるものでもある。……けれど、心を惑わせるものでもある」
張嬪の笑顔が、わずかに強張る。
それを煌星は見逃さなかった。
その日の夕刻、魏嬪と帳を囲む。
「やはり張嬪の動きが怪しいと、錦麟衛からも報告が」
「あの香、使われているのは……合歓、龍脳、それに青梅皮。精神を鎮めつつ、反射を鈍らせる」
魏嬪が頷く。
「しかも、後宮の一部の宦官を通じて城外から持ち込まれていた形跡が。配った侍女の動きも確認中です」
「……単なる妃たちの不調狙いじゃない。もっと、“誘導”しようとしてる」
「例えば……?」
「恐らくこれも……発情のような」
沈黙。
「……やっぱり、そこへ、行き着きますか」
魏嬪がため息をついた。
煌星はどうにも附に落ちず眉をひそめる。
「でも、それを“全員”に配る意味なんてあるかな……?僕だけならともかく」
「そうですわね。私の元にも来ましたから。もう少し、調べてみましょう」
煌星は魏品の声に、頷いた。