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四十七、沈黙の香、揺れる証

蘭台宮から戻った煌星は、自室の扉をそっと閉じた。

小さな香包を手に、卓に向かう。絹の包みをほどき、匂い袋の中身を取り出す。


──春蘭、白檀、それに……これは……


指先で微かに崩していくと、柔らかく、しかし鼻腔に残る奇妙な甘さが香った。

その奥にある、わずかな“引き”の感覚。


(……これ、精神を沈める系統の香……でも、“沈める”だけじゃない)


市井の香屋で、何度も扱った記憶がある。

人の意識に“曇り”を与える。特に、心が疲れていたり不安定な者ほど反応しやすい。


(……どうして、こんなものを)


煌星は深く息を吐くと、香材を密封し、手元の帳に一言だけ記した。


──香、意図的な操作。張嬪。


(僕に挑もうってわけか……いや張嬪からしたら“璃月”だろうけどね。本当に、度胸は一人前だなぁ)


ゆるく息を吐き出して、煌星は目を閉じる。


(それなら、まあ……受けて立つのが“貴妃”だろうな)


瞼を開けた瞳には、強い意思が宿っていた。



翌日、後宮の回廊を歩きながら、煌星は心を定めていた。


(番の隣に立つなら、“仮”でも“飾り”でもいたくない。だったら、動く)


名目は“見舞い”と称し、まず沈才人の部屋を訪ねた。


「……あら、貴妃様。めずらしくおひとりで」

「ええ。実家から珍しい果物が届きましたから、皆様にお裾分けを持ってきましたのよ。……張嬪様から頂いた香は、良い香りですわね?もうお使いになった?」

「ええ、はい。なんでも、安眠できるとかお聞きしましたわ……あ、でも、夜に少し夢見が悪かったような」


その言葉に、煌星は微かに頷いた。

次に向かったのは柳美人。


「貴妃様……まあ、ありがとうございます。香、ですか? 私は好きですわ、あれ。眠る前に焚くと、ふわっと……」

「ふわっと?」

「ええ、少し浮くような気分になりますの」


(それ……軽い幻覚作用起きてるじゃないか……)


最後に、張嬪のもとへ。


「まあ、貴妃様。わざわざどうも。私の香りはお気に召しまして?」


張嬪はいつものようににこやかだったが、その笑みに緊張の影があった。


「とても興味深い香りでしたわ。……ご自身で選ばれたの?」

「ええ、たまたま手に入りましたの。貴妃様にはきっとお分かりでしょう?」


(……配合は言わない、か。わざとらしいな)


煌星は柔らかく笑ったまま、静かに目を伏せた。


「香は、記憶を呼びますものね。心を落ち着けるものでもある。……けれど、心を惑わせるものでもある」


張嬪の笑顔が、わずかに強張る。

それを煌星は見逃さなかった。



その日の夕刻、魏嬪と帳を囲む。


「やはり張嬪の動きが怪しいと、錦麟衛からも報告が」

「あの香、使われているのは……合歓、龍脳、それに青梅皮。精神を鎮めつつ、反射を鈍らせる」


魏嬪が頷く。


「しかも、後宮の一部の宦官を通じて城外から持ち込まれていた形跡が。配った侍女の動きも確認中です」

「……単なる妃たちの不調狙いじゃない。もっと、“誘導”しようとしてる」

「例えば……?」

「恐らくこれも……発情のような」


沈黙。


「……やっぱり、そこへ、行き着きますか」


魏嬪がため息をついた。

煌星はどうにも附に落ちず眉をひそめる。


「でも、それを“全員”に配る意味なんてあるかな……?僕だけならともかく」

「そうですわね。私の元にも来ましたから。もう少し、調べてみましょう」


煌星は魏品の声に、頷いた。


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