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第79話:最終回

「まだ暑いね」


 お姉ちゃんが風でたなびく髪を押さえながら言った。もうすぐ夏も終わる。


 俺達は糸より村の海に来ていた。日が沈む前の独特の空気の瞬間。聞こえるのは俺達家族の声と波の音だけ。海の集客はまだできていないので、海があるからにはこの糸より村の見どころはもっとあるだろう。


 考えてみたら、俺がこの村に来ることになって以来、どれくらい時間が経っただろう。色々なことがあった。俺の身の周りには色々なことが起きた。


 ■■■


 まずは、母のこと。


 母は老健センターから特養(特別養護老人ホーム)に転所した。元々老健は一時的な施設で、入る時には利用できるのは通常三か月、長くて半年って聞いていた。そこからずっといられる特養に移った。


 正確には、入所待ちで「ショートステイ」ってやつ。これの長い版だから、「ロングショートステイ」。もう意味が分からない。とりあえす、1年ごと契約で契約更新しつつ特養の空きを待つ感じ。


 母的には、入所してるのと同じ生活だから健やかに余生を送ってもらえたら俺としては十分だ。


 昔は「歳をとってもあんたの世話にはならんけんね」って言ってた。でも老いは本人も気づかないくらいゆっくりくる。そして、ある瞬間にそれに気づく。手遅れになってから……。


「茹でカエル」なのかもしれない。少し前にネットで話題になった事柄だけど、ぬるま湯にカエルを入れてもカエルには何の影響もない。その後、カエルが気付かないくらいゆっくりと加熱してもカエルはそれに気付かず、ある時許容温度を超えてカエルは茹でられて死ぬという話。


「少しずつ起こる環境の変化に対応できないと、後々大変な損害を被ることがある」ってことのたとえ話でビジネスシーンでも聞いたかな。まあ、実際にはそんなことは起きないらしいけど。


 俺の母は、若いうちに手を打っておかなかったから、貯金も全部清司に取られてしまったし、身体が自由に動かなくなってから、もらっている年金で何とか生活できるところを探す必要があった。


 今のところでも年金じゃ足りなかったし、俺がいなかったらどうなっていたか……。


 歳を取ってからではどうしようもなくなる。年寄りは痴呆になる人もいるし、それにより凶暴性を持つ人もいる。そんなこと若い時は知りもしなかった。


 他人のせいにせずに自分で自分の責任を負う姿勢は必要だ。


 ■■■


 次に、清司のこと。あいつとはもう、縁を切った。


 父親は今後一人で寂しく老いていくしかない。俺は自宅介護の段階で何度もヘルパーを入れる話をしていた。それを受け入れないで一人で介護して、結果DV……。DVはダメなんだよ。


 その後は1人で静かに死んでいくだけ。


 その後別に家庭裁判所からの調停申込みが来たが、これまでの経緯を調停官に話をしたら清司のDVが全ての原因だと理解してもらえた。


 多分、清司は納得せずに、裁判になるだろう。それも付き合わないといけないと思ったら気分が滅入る。


 ■■■


「お父さん?」


 俺がぼんやり海を見ていたらお姉ちゃんが声をかけてくれた。


「ごめん。考え事してた」

「大丈夫? 悲しい顔してたよ?」


 両親の変化を考えたら悲しい気持ちだったかもしれない。


 でも、俺には楽しい日常もある。


「私も聞きたいです」


 せしるんが俺の横に腰かけた。俺のことを心配してくれている顔。俺は彼女の笑顔を曇らせてはいけない。


「せしるんって、岡里セシルって名乗ってたよね? それが偽名だったんだよね?」

「な、なんですか!? 急に!」


 結局、婚姻届けを出すときも俺が先に書いて、せしるんのところは彼女が一人で書いて出したのだ。見たいって言っても見せてくれなかった。免許証を見せてもらったときに名前も見ておくべきだった……。


「だって、大事な人なのに、本名も知らないなんて、さ」

「うっ……」


 せしるんがダメージを受けている。


「髪はピンクだし、名前は偽名だし、職業はYouTuberだし」

「うっ、うう……」


 せしるんが胸を押さえて仰け反ってる。ノリがいいな。


「……笑わないですか?」

「笑わないよ」

「絶対?」

「絶対」


 なんだこのやり取り。


「揶揄わない?」

「揶揄う名前ってどんなの? 『安藤なつ』みたいの?」

「そんなのうまいって思う名前じゃないですか!」


 俺はちょっと考えてみた。


「『小俣香(おまた・かおる)』みたいなの?」

「それは絶望しちゃうかも!」


 マンガとかは世代が違うからなぁ。伝わらなかったか……。


「じゃあ、何? どんなの?」


 せしるんは下を向いてしまった。意思を固めているのか? そんなに無理して聞きだしたい訳じゃないけど、隠されると気になるじゃない?


「……はるか」

「ん?」


 はるかって言った? 良い名前じゃない?


「かなたはるか」

「はい?」


 かなたなのか、はるかなのか……?


「『彼方はるか』です! 彼の方って書いてかなた! はるかはひらがな!」


 思ったより大きな声でびっくりした。


「え? 珍しい名前だとは思うけど、別に変じゃなくない?」

「この名前はいつもいじられるんです!」


 彼女の話をまとめると「彼」と苗字に入っているのは男性的だと言われたのだとか。苗字に男性も女性もなかろうに。


「漫才師にそんな名前の人もいて……」

「いや、知らないし」

「最近では公道レースの男の子も現れたし……」


 どこかにカナタがいたかな。


「逆に、なんで『せしる』?」

「浅香唯が好きなんです! 大好きなんです!」


 スケバン刑事! 全くあらしい情報出て来た! 浅香唯は髪の毛ピンクじゃないし。


 浅香唯は昔のアイドル? 女優って言った方がいいのか? たしか、彼女が歌った曲に「セシル」ってあったな。


「『ADブギ』のころの浅香唯が大好きなんです!」


 きみはいくつなんだよ……。


 どうやら、俺が彼女のことを理解するのにはもう少し時間がかかりそうだ。まあ、いいか。時間はたっぷりある。


 せしるんは、一応免許証も見せてくれた。本当だった。


「これからも、『せしるん』でお願いしたいんですけど……」


 せしるんは不安そうだ。


「ごめんごめん。名前は重要じゃないんだ。俺にとって『せしるん』は『せしるん』ってことで」


 そう言うと、せしるんは肩に頭をもたげてきた。人って何がコンプレックスになるか分からない。無理に聞いて悪かったけど、これで、せしるんは俺の前で名前についてコンプレックスを持たなくてよくなったんだ。


 そして、また一つ仲良くなれた気がする。


 俺の大事なもの……。たくさん大切なものはあるんだけど、やっぱり二人の娘達は最高だ。


「俺にとっては、せしるんも大事だし、娘達も大事だよ」


 ちょうどお姉ちゃんと、智恵理も近くに来たので、そう声をかけた。


「お姉ちゃんの『智子』は広い心を持っているし、『智恵理』は知恵が働く。二人はいつまでも仲良し。名前の通りだな」


 ちょっと良いことを言った……そんな気がしていたとき。


「……ちょっと待って、お父さん。私たちの名前って意味があるの!?」


 お姉ちゃんが聞き逃さなかった。そう言えば、二人に話したことってなかったかも。


「私も聞きたいです」


 智恵理も興味を持ったみたい。そりゃあ、自分のことだしな。


「有名なキャラクターから来てるんだよ」

「うそ!? そんな名前のキャラとか聞いたことない」


 しょうがない。


「〽智子、智恵理! 仲良くケンカしな~♪」


 俺は歌って見せた。


「それって、まさか『トムとジェリー』!? まさかのダジャレ!?」

「ひどい! ひどすぎる! 娘達の名前で遊ぶなんて!」


 めちゃくちゃ評判悪いんだけど……。俺としては大好きなキャラに願掛けした感じだったのに。


「いやいや、俺の一番好きなキャラクターだから! しかも、二人とも良い子に育ったし!」


 娘達に理解してもらうのにも、もう少し時間がかかりそうだ。


 まあ、時間はたっぷりあるんだ。時間をかけて……。いや、「茹でカエル」ってこともある。早急に理解してもらえるように頑張らないといけないようだ。


「あの〜、お父さん」


 せしるんが恐る恐る手を顔の高さまで上げた。


「なに?」

「さっきの『大切な人』に1人追加したいんですけど……」

「1人……? 誰?」


 俺は浅香唯の歌で「セシル」以外に名前として使えそうなのを探さないといけないのかもしれない。


〈了〉



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