「ひな……少しいいかい?」
障子の向こう側から声をかけた麟に、ひなは弾かれるように顔を上げて急ぎ障子を開いた。そこに立っている麟の姿を確認するや、ひなは何も言わずに彼の腕を掴んでぐいぐいと部屋の中に引っ張り込む。
「ひな?」
「麟さん、いいからここに座って!」
ひなは有無も言わせず、少し怒ったような表情をしたまま置かれていた座布団の上に麟を座らせると、部屋の隅に用意してあった薬箱を取り戻って来る。
綿球に消毒液を浸み込ませ、それを負傷している麟の唇の処置を始めた。
「ひ……」
「今喋っちゃダメ! 薬が口の中に入っちゃう」
痛くないように加減をしながらそっと傷口を消毒しているひなの姿を見ていると、どうしても雪那の面影が被さって来る。いつだったか、手に傷を負った時も彼女はこうして少し怒ったように有無を言わせる間もなく手当をしてくれたことがあった。
――まったくもう、無茶はしないでください。
「もう、無茶したらダメですよ?」
――色々と事情があったのは分かります。でも、ケガをするようなことはしないで下さい。
「色んな事情があったみたいですけど、ケガするような事はしないで下さいね」
小言のようにも聞こえるその言葉一つ一つが、彼女の言葉そのままで麟には懐かしくてしょうがなかった。
あぁ、君は一体どこまで彼女に似ているのか……。
そう思うとどうしようもなく胸が締め付けられ、気付けばひなを真正面からしっかりと抱きすくめていた。
「り、麟さん!?」
突然の抱擁に驚いて、ひなは思わず手に持っていた綿球と消毒薬を取り落とした。
二人の傍らで落とした薬の小瓶から消毒液が流れ出ているが、今はそれどころではない。
いつになくきつく抱きすくめられたひなは、自分が意識せずとも鼓動が早まるのを抑えられず、顔に熱が集まって来る。
どうしたというのだろうか? こんな甘えたように抱きついて来る事がなかった麟に動揺を隠し切れない。
思わずキョロキョロと辺りを見回してシナがいないことを確認し、ひなは真っ赤になった自分の顔を両手で覆い隠して天を仰いだ。
この状況は一体なんなんだろうか。
さっきまでのモヤモヤした気持ちは何処へ行ってしまったのか。何で麟はこんなに必死にしがみつくように抱きしめて来るのか。色々な事が一気にやってきて恥ずかしいやら困惑するやら、複雑な気持ちになる。
(ふあぁあぁあぁ!? 何これ何コレ?! 急にこんな、どういうこと?!)
「……参ったな。こうも似ているなんて」
そう呟いた麟の言葉に、ひなはハタと動きを止めて顔から手を放し彼を見下ろす。
似ていると言うのは、一体どういう事なんだろうか。自分は、麟が知っている誰かに似ているという事だと言うのは分かるが、その対象が誰なのかがとても気になる。つまりその対象には、今麟がこうしているように「抱きしめたい」と思うような相手だと言う事で……。
そう考えるとそれまでバクバクとなっていた胸の鼓動が嘘のように落ち着いて来ると、またモヤモヤとした気持ちが戻って来る。
(……そりゃ麟さんだって、長い間ここにいて好きな人の一人や二人いてもおかしくないだろうけど)
それがいったい誰なのか。聞いてみたいが聞き出せずに麟を見つめる。それにしても……と、ひなの思考が別に働き始める。こんな風に彼を見下ろす日が来るとは思わなかった。どう考えても見下されることの方が当たり前だったのだから、何とも新鮮な光景だ。
(麟さん……何か小さい子供みたい)
自分も子供だと言うのに、ふとそんな風に考えてしまう。
相手は自分の年齢など遥かに遠く及ばないほど上だろうことは分かっているのに、不思議な気持ちだ。
この状況になったことがあるのが自分以外にもいると思うと、いかんせん面白くないのも事実。
(私に似てるっていうその誰かは、大人な麟さんがこうして甘えたりできる人だったのかな……)
だが、もし麟に他に想う人がいたとしても、今こうしているのは自分なんだ。それを許されているのは今自分しかいない。そう思うとどうしても手放したくない気持ちが強くなってくる。
ひなは自分の胸元にある麟の頭の上に躊躇いながらもそっと手を置いて、やんわりと抱きしめ返していた。
「……麟さん、どうしたんですか?」
「……!」
優しい声音でそう聞き返された麟は目を開いて顔を上げ、腕を解いてひなを見つめ返す。
突然顔を上げた麟に驚いたひなは、パッと抱きしめていた手を外して慌てたように言いつくろい始めた。
「あ、ええっと、ご、ごめんなさい。何かつい……」
「……」
「だ、だってなんか麟さんが小さい子みたいで、か、可愛いなぁ~って思っちゃって……あ! 麟さん神様なのに可愛いなんて失礼だったよね!? うああぁ、ご、ごめんなさい」
一人で赤くなったり青くなったりと忙しない様子を見せ、最後にはまたも顔を両手で覆い隠して顔を伏せるひなに、麟は思わず笑ってしまった。
指の隙間から恐る恐る顔を上げると、すくすくと笑う麟の姿が目に映る。
こうして、子供みたいに甘えたり無邪気に笑ったり……。そんな表情を今見ているのが自分だけだと思うと嬉しいようなくすぐったいような気持になる。だが、良いんだろうか? もし、他に想う人がいてこの状況を知ったら、恨まれたりするんじゃないだろうか?
独占欲とまだ見ぬ相手に対する配慮と嫌悪感に、がんじがらめになってしまいそうになる。もしも、その相手が名乗りを上げてここに乗り込んで来たら、自分はきっと追い出されてしまうのかもしれない。
そう思うと子供の頃のトラウマがむくむくと湧き上がってきて、さっきまで感じていた嬉しさもくすぐったい緊張感もすべてが自分の中で無かったことになってしまう。麟に限ってそんなことはしないだろう。そう分かっていても怖くなってくる。
ひなはきゅっと唇を噛んだ。
「……麟さん」
「?」
「……私に似てる人って、どんな人?」
無意識にも口を突いて出た言葉に、麟が真っすぐ自分を見つめて来る。どこか気まずそうにしているひなの姿を見て、麟は口元に手を当てて僅かに視線を逸らした。その麟の姿に、ズキンとひなの胸が痛む。だが、ひなはそれでも自分の胸元の着物を握り締めて小さく息を吸うと、パッと笑みを浮かべて麟に向き直った。
麟が困るような事はしたくない。
「そ、その人って麟さんの好きな人なんだよね? 私こっちに来てからまだ会った事ないから知らなくって……。何か、ごめんなさい」
「ひな……」
「何にも知らなかったから……。知らなかったとはいえ、私が勝手に好きだなぁなんて思って、勝手に好かれてるって思っちゃって……すごい、恥ずかしいかも。……ごめんなさい」
一所懸命に取り繕い笑みを浮かべようと必死になったが、なぜだろう。昔のように上手く出来ない。もう泣かないと決めていたのに、気付くと目からボロボロと大粒の涙が溢れ出て止まらなくなった。
「どうしてかなぁ……こっちに来てから私、前より泣き虫になっちゃった……」
「……っ」
ひなはぎゅうっと目を閉じて、膝の上に置いていた両手を固く握り込んだ。泣くような事じゃないのは分かっている。それでも色々な感情がひなを支配していて追いつかなくなってしまっているのも事実。
小刻みに体を震わせるひなを、麟は真っすぐにひなを見つめて口を開いた。
「君に、その話をしようと思ったんだ」
「……聞きたくない」
俯いているひなの感情が負に傾き始めたのだろうか。部屋の空気がピリピリとしたものに変わって行く。このままにしていれば、間違いなく以前のように力が爆発してしまう。
「ひな……」
麟がひなの名を呼ぶと、ひなはぎゅっと瞳を閉じて耳を塞いだ。
「聞きたくないっ……。麟さんがこうして優しくしてくれるのは私の為だけじゃないって、この温かさも私の為だけにあるんじゃないって……私をここへ連れて来てくれたのはただの同情だったんだって、そう思ったら怖いっ!」
「違う!」
ひながそんな風に思っていたと知った麟は、彼女を抱き寄せる手に力が籠り力強くひなの言葉を否定した。
いつもは声を荒らげる事がない麟の短い言葉に、ひなは驚いて閉じていた目を見開く。今度は彼の胸に抱き寄せられ、たくましい腕に抱きしめられる形になり多少の息苦しさを覚えた。
「……君が言う事全てが違うとは言わない。でも、君に同情したからなんて理由でここに連れて来たわけじゃない」
強張ったひなの体から力が抜けていくのを感じ、麟は彼女を抱きしめる手を緩めひなの顔を覗き込む。
ひなもまたどこか不安そうな色を見せながらも麟を見つめていた。
「落ち着いて聞いて欲しいんだ。これは、君に関わる事でもある」
「……」
静かに呟いた麟の言葉に、ひなはただ頷く事しか出来なかった。