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第二話 寒い朝

「お父さん。今日は仕事お休みなの?」

 怜美は焼き魚とあさりの味噌汁に玉子かけごはんの朝食を食べていた。その向かいで父親の孝夫がのんびりとお茶を飲みながら新聞を読んでいる。

「ああ。今日は工場のメンテナンスが入ってな。総務部以外は全員休業なんだ」

「ふうん。それなら出先で仕事すればいいじゃない」

 父親は水産加工会社の中堅社員である。後ろに撫でつけた頭髪に、ぽつぽつと白いものが混じり始めていた。茶色い格子縞のガウンを羽織り、黒縁の老眼鏡を掛けている姿は、一見総務部の部長か機械のエンジニアのようにも見えるのだが、実際はただの営業マンなのだ。

「お母さんも?」

 怜美は台所で洗い物をしている母に尋ねた。

 母の育子は缶詰工場でパートをしている。いつもならこの時間には家を出ている頃だ。

「朝から正ちゃん、少し熱っぽいのよ。心配だからお休みもらっちゃったのよ。有給休暇もたまってるしね」

 正ちゃんとは、歳の離れた怜美の弟のことである。名前を正一という。怜美が高校に入学したときに産まれたから、怜美とは十五歳ぐらい年齢差があるのだ。

「お母さんは正ちゃんに甘いんだから。あたしには少しぐらいの風邪だったら絶対休ませないくせに」

「だってねえ」母はうれしそうに前掛けで手を拭っている。「この歳で子宝に恵まれるなんて思ってもみなかったからねえ・・・・・・」

 ふくよかな母の顔は、実年齢よりもだいぶ若く見える。怜美の白い肌は母親ゆずりなのだ。

「会社の友達が正ちゃんのこと、わたしの隠し子だって思ってたんだよ」

「まさか」

 育子が目を丸くする。

「冗談よ」怜美が微笑む。「本当の事がわかればみんな納得だもん。過疎化の解消に一役買ったご両親に感謝しなきゃだってさ」

「怜美」孝夫が咳払いをする。「そろそろ仕事に行かなくていいのか。会社に遅刻するぞ」

 正一の話になると、父はいつも気難しくなる。気恥ずかしいのだろう。なんとなく話題をそらそうとするのだ。

「いま何時?」

「もう8時だ」

 その時ちょうど、テレビのキャラクターの可愛いらしい音声が8時の時報を告げた。

「うん。そろそろ出ようかな」

「そうしなさい。今朝は冷えるからちゃんとマフラーと手袋をして行くのよ」と母親が言う。

「わかってるわよ」

 怜美は椅子に掛けておいたキャメルのダッフルコートを羽織る。

「行ってきます」

「いってらっしゃい」と母。

「気をつけてな」と父も声を掛けてくれた。


 玄関を出て舗装された表通りに出る。遠く山並みの緑が鮮やかに怜美の瞳に映る。さすがに寒さで背中が凍りつきそうになった。

「うっ寒!」

怜美は思わず赤いマフラーに首をうずめた。


 ここ宮城県気仙沼市は三陸沖に面している。夏は寒流の親潮が山背やませの冷気を運んでくるので涼しく、冬は暖流の黒潮が暖気を呼ぶ。だから東北の中でもこの辺りは比較的すごしやすい地域なのである。

 例年ならば二十度ぐらいの気温のはずなのだが、その日の朝はなぜか氷点下に近かった。

 湾内を見渡せば、たくさんの小型船舶に混じって数隻の遠洋漁業の大型船が、借りてきた猫のごとく静かに停泊しているのが見える。

 漁船が多いのは、この辺りがむかしから水産業が盛んな地域だからである。三陸沖は親潮と黒潮のぶつかる場所なので、プランクトンがそこに集まってくる。そのプランクトンを求めて小魚が集まる。そして今度はその小魚を求めて大型魚が集まってくる。だからこの辺りは世界でも有数の優良漁場なのだ。

 北海道から秋刀魚さんまを追って南下してくる漁船がいたり、かつおを追って千葉や四国、九州などからも北上した漁船がやってくる。気仙沼はそういった船の拠点となっているのだ。


 怜美の勤め先は造船所で、事務所は港にほど近い丘陵地にあった。

 その時、コートの左ポケットに入れてあった携帯電話が鳴った。メールの着信を音と振動で知らせて来たのだ。画面を見ると𠮷之と表示されている。怜美はふうと溜息をつくと、立ち止まってメールを開いた。


“おはよう。元気?こっちの三月は結構寒いぞ。ところでゴールデン・ウィークには帰るつもりだったけど、こっちでちょっと用事ができてしまった。だから今年は帰れそうにない。なにか欲しいものがあったら送るから、なんなりとリクエストを言ってくれ”


 堀場𠮷之は高校時代のボーイフレンドだ。気仙沼は市内に大学などの高等教育施設がない上に、就職先も水産業か観光業ぐらいなものだから、どうしても若い人間は都会に出て行ってしまうのである。


 用事ってなんの用事よ?怜美はまたひとつ溜息をつくと、メールの返信を打った。


“おはよう。どうもね~。気にせんでいいよ。気持ちだけいただいておくから。お身体を大切にね”


 送信ボタンを押した。すると𠮷之からすかさず返信が来た。お詫びの土下座をしているスタンプだった。

「それだけかよ」

 怜美は虚しくなって携帯電話をコートのポケットに戻した。

「おはよう」

 突然背中をポンと叩かれた。高峰曜子のくったくのない笑顔がそこにあった。彼女は会社の数少ない女子社員の同僚なのだ。いつもこの迫力のある笑顔を絶やさない。高校時代は水泳部のキャプテンだったそうで、肩幅が異様に広い。怜美はいつも高峰に圧倒されてしまう。

「あ、先輩。おはようございます」

「いいねえ、彼氏?」

 高峰が左の眉だけを釣り上げて訊いてくる。

「彼氏だったになりそうなひと」

「ふうん。やっぱり遠く離れるとなるとそうなるよねぇ」

「高峰先輩もそうだったんですか?」

「しかたないよ。若者の流出が激しい土地だもの。残ったわたし達でこの場はなんとかするしかないでしょ」

「・・・・・・ですよね」

「どう、今夜あたり。青年団の集まりがあるんだけど。そろそろ参加しない?怜美ちゃんが来たらみんな大喜びなんだけどな」

「ううん」怜美は白いのどを伸ばして天を仰ぐ。𠮷之のくったくのない笑顔がまるで白夜月のようにどんよりと曇った空に浮かびあがった。

「考えときます」

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