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第四話 波動

 最初の揺れが収まって40分が過ぎようとしていた。

 孝夫と育子はテーブルの下から這い出して、とりあえず床に散乱した物を片付けてはじめていた。このままだと、足の踏み場もないのだ。

「おい育子。なにか変な音がしないか?」

 孝夫が顔をあげる。遠くの方からかすかにゴーッという低い音がする。

「・・・・・・滝の音みたい」

 すると次の瞬間、玄関から灰色の水が侵入してきた。

「きゃ!」育子はとっさに寝ていた正一を抱き抱えた。「あなた!」

「くそ!津波が押し寄せてきたのか」

 孝夫が窓の外に目を向けて息を呑んだ。遙か遠くの海面が盛り上がり、巨大な壁面になってこちらに迫ってきていたのだ。

「育子、逃げるぞ!」

「逃げるってどこへ!外はもう無理よ!」

 ただならぬ両親の声が恐ろしかったのだろう。眠っていた正一が火がついたように泣き出した。

「屋根に登るんだ」

「屋根って・・・・・・」

「ベランダに梯子がある」

 ちょうど外壁工事の途中だったのである。

 そうこうしている内に膝の下まで水位が上がって来ていた。速い。

 妻と二人で手早くダウンジャケットを羽織ると孝夫がベランダのサッシを開けた。

「・・・・・・」息を呑んだ。

 家の周辺がまるで川面かわものようだった。

 サイレンが逃げ遅れた孝夫たちを叱責しっせきし続けているかのように鳴り響いている。いま街が海に呑み込まれようとしている。


「こっちだ!」

 孝夫は素早くジュラルミン製の梯子を屋根に立て掛けて固定した。

「無理よ」

「大丈夫だ。なんとかなる。正ちゃんを俺に縛りつけてくれ」

 そう言うと、孝夫は正一をしっかりと背負い、先ほど脱ぎ捨てたガウンの腰紐を育子に渡した。

「だって・・・・・・」

 育子はとうとう泣き出した。

「泣いてる場合じゃない。急ぐんだ!」

 嗚咽で声にならない育子が孝夫の言われるままに、正一を孝夫の背中にくくりつけた。

「先に登りなさい」

 育子はしゃくり上げながら頷くと、恐怖と寒さで震える手で梯子を登りはじめた。黒ずんだ水はすでに孝夫の腰にまで達しようとていた。

「はやく、急げ!」

 育子は戦々恐々として屋根までよじ登った。

 そのすぐ後に正一を背負った孝夫が荒い息をはずませながら這い上がってくる。水に濡れた脚はすでに寒さで感覚を失っていた。火事場の馬鹿力とはよく言ったものだ。普段の孝夫だったらとうの昔に根を上げていたことだろう。

 足の下ではゴーッという音と共に、黒いヘドロを巻き上げた海水が濁流となって流れている。

 何台もの乗用車がクラクションを鳴らしっぱなしで、木の葉のように回転しながら漂ってきた。

 そのときバリバリというなにかを引き剥がした音がした。気がついたら孝夫たちの家も、その車たちと同じようにゆっくりと漂流し始めたではないか。一瞬頭の中が真っ白になった。

 遠くのビルの屋上に、避難した人達がすべもなく孝夫たちを見守っていのるのが見えた。拡声器を持ってなにか叫んでいる者もいるが、とても聴き取れる状況ではない。


「育子。けっぱれ!」孝夫の口から、思わず頑張れという意味の方言が出た。「この紐をお互いに結ぶんだ」

 そう言うと、正一を固定していた紐をテレビ・アンテナと育子の手に巻き付けた。

「あなた・・・・・・」

「絶対に落ちるなよ・・・・・・落ちたら終わりだぞ」

 まるで粘土でも溶かしたかのような濁流を見つめながら孝夫は思った。地獄のようだ。

 正一は泣きながら母を見上げた。

「おねえちゃんは。おねえちゃんはどこ?おねえちゃんはだいじょうぶなの?」

 育子がわが子を抱きしめた。

「正ちゃん、だいじょうぶだよ。怜美は会社だから」


 その時、大きな影が親子に近づいてきていた。育子がふと目を上げると、港に停泊していた白くて巨大な大型船の舳先へさきが、すぐ眼の前まで迫って来ていた。

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