一瞬の出来事だった。
黒光りするあいつの刃が無数に繰り出され、僕を庇おうとしてあいつとの間に割って入った母さんは文字通り、切り刻まれて真っ赤な煙となった。
残ったのは、母さんの首。
いや、首だけになった母さんか。
そんな母さんが口元に微かな微笑みを浮かべたまま、ゴロリと地面を転がる。
長く艶やかな黒髪に砂粒がこびりついていた。
まるで映画のスローモーションを見ているようだった。
それは本当に二秒か三秒のできごとで、一体何が起きたのか全く把握できなかった。
やっと理解が追いついたのは、首だけになった母さんと目があった時だった。
いつもキラキラしていてエネルギーに満ち溢れていた母さんの瞳からは輝きが失われ、ドロッと濁っていた。だから、ようやく僕は悟った。
あ、お母さん死んじゃったんだ……。
次の瞬間、身体の内側から激しい感情が沸き上がり、僕は慟哭していた。
だけど、それは悲しみでも恐怖でも絶望でもなくて――。
怒り、だった。そう、僕は腹を立てていた。
その対象は他でもない、僕を足元から見上げてくる母さん。
何をやってるんだ、ふざけるなよ母さん。
僕と二人で親子ヒーロー目指すとか言ってたくせに。僕のこと、世の中の人の役に立つヒーローになれるって散々持ち上げて来たくせに。
自分が真っ先に死んでどうするんだよ……。
「こ、これでオメェも――」
頭上でくぐもった声が聞こえた。それは頭の悪い動物が無理をして人間の言葉を話している、そんな印象を与える話し方。
ハッとして顔を挙げた僕の視界に映ったのは黒く、ゴワゴワとした毛に包まれた巨体がゆっくりと起き上るところだった。ガチャガチャとそいつが全身にまとった鎧が耳障りな音を立てていた。そして、むせかえるような臭い。
金色に輝く二つの瞳を細め、鋸のような牙がのぞく、耳元まで裂けた巨大な口を歪めながらそいつは人語を続けてゆく。
「これでオメェもオデとおんなじだぁ……。オデとおんなじで死ぬまでずっと一人ぼっちだぁ……」
僕は膝をかがめ、母さんの首を拾い上げた。髪の毛の中に右手を潜り込ませ、髪の毛を数十本、ブチブチと引き抜いていた。それから、髪の毛のたばをグルグルと左手に巻き付けてゆく。皮膚が破れて血が滲んで来るほど、強く。
「へぇ、オメェもその女といっしょで外法使いかぁ? だ、だったら本当にかわいそ、だなぁ……」
言葉とは裏腹にその口調に同情や憐憫はない。
弱った獲物を痛ぶって愉悦に耽る、獣の劣情がそこにあった。
「だから、ここで死ね」
と、巨体の背中から。
人間のように立ち上がった後ろ足の爪先、やたら短い前足の関節、そして冗談のように大きな頭の真ん中から。
ズルズルと伸び出てきたのは、大きく湾曲した黒い刃たち。
母さんを切り裂いた無数の大鎌だ。
きっとその気になれば、僕のことも瞬きするよりも早くバラバラにできるんだろうな……。
その有様を想像し、思わず僕は口を歪め――笑っていた。
もし、誰かが見ていれば間違いなく不愉快になったであろう暗い表情で。
この時、なぜ笑ったのか、僕自身よくわかっていない。
多分、この時から僕はそれまでの僕じゃなくなっていたんだと思う。
僕と獣。獣と僕。
二つの声がぴったりと重なった。
「――殺してやる」