「――ごめんな、リョウ。うちのせいでいろいろ手間かけさせて」
「そんなことはいい。……それより本当に病院行かなくていいのか? 相手は熊みたいな猛獣だったんだろ?」
「ん。大丈夫、思ったより全然傷浅かったし、うち治りやすい体質やし。それに……」
噛まれた傷跡は、コウが外法頭の黒い糸を使って縫い合わせてくれていたし。うちが全く気がつかないうちに。
スーパーつかもりのロゴが入った軽トラックの助手席に揺られ、窓の外に浮かぶ満月をうちはボンヤリと見上げていた。
運転席には、塚森家とは何百年もの間、付き合いのある鳥羽リョウの姿。
コウと入れ替わるようにして、東雲家までうちを迎えに来てくれたのだ。
リョウ曰く――、今日は一日、外回りの仕事で走り回っていたらしいのだが夕方頃、コウから電話があり、急遽夢ノ宮の住宅街まで来いと一方的に呼び出されたそうだ。
つまり、コウはうちの行動を予測、二手、三手先まで踏まえていたと言うことだ。
結局、うちは誰かの役に立てるつもりになっていただけの迷惑な子供だった
しばらくの間、うちが口をつぐんでいるとため息交じりにリョウが声をかけてくる。
「なぁ、キミカ。今日はお前、いろいろと大変だったんだし……、童ノ宮に挨拶に行くのはなにも今日でなくてもいいんじゃないのか? あいつ――、カガヒコだって、それぐらいの融通利かせてくれると思うんだが」
「……リョウ、それはあかんねん」
小さく首を振り、うちはかたわらのポーチにそっと手を触れる。
その中にあるのは大型犬の首輪。コウが立ち去った後、廃屋の正体を現した東雲家の中にもう一度戻り、あの真っ暗な仏間のゴミ箱から取り返してきたのだ。
そんなうちを正真正銘のバカだと思ったのかもしれない。気配は感じたけれど、東雲さんの姿をしたモウジャは姿を現さなかった。
「うち、今回はホンマに大失敗していろんな人に迷惑にかけたし。……せめて童ノ宮の神様には早よ謝っときたいねん」
そう言って何とかうちは笑おうとしたけど、無理だった。
その時のうちは二と見られない酷い変な顔になっていたと思う。
それを見られるのが嫌でもう一度、顔を伏せる。
自然と身体全身が震え、嗚咽が漏れるのを止められなかった。
リョウは運転したまま片手を伸ばし、うちの頭をポンと軽く叩く。
その後、小さい声でこう呟いた。
「あまり自分を責めるな。……お前はいつもよく頑張っている」
それから数分後――。
うちらを乗せた軽トラックは、童ノ宮の駐車場に止まっていた。
リョウはそこで待機してもらうことにして、うちは車を降りていた。
それから社殿へと続く参道を歩き始める。
当然だけど、夜の境内には一般の参拝者の姿はなく、うちは一人ぼっちで身体を引きずるようにして進み続けた。
手水舎で手を清めた後、大きなお賽銭箱を横切りうちは拝殿へと進んだ。
四隅に置かれた灯篭の灯りに照らされた拝殿の内部はしんと静まり返っていた。
良く磨かれた板張りの上には御祈祷を受ける参拝者のための長椅子が整然と並べられ、その奥には大きく背の高い祭壇が設えられている。
祭壇の棚には様々な物品が置かれていた。
旬の野菜や魚、果物、お菓子といったごく普通のお供え物だけじゃない。
いかにも曰くありげな和人形や洋人形、陰鬱な風景が描かれた絵画、個人の持ち物だったと思しき傘や杖、オルゴールといった骨董品まで置かれている。
お父さんが言うにはそれらは因縁物、あるいは呪物と呼ばれていて、みだりに触れることは危険とされている品々だ。
うちはポーチの中から大型犬用の首輪を取り出し、他の品々と同じように棚の上に並べた。それからそこを離れ、長椅子の端っこに腰を降ろす。
どっと疲労感が押し寄せ、呻き声をあげながらうちは頭を両手で支える。
シロテブクロと呼称された犬の怪異。
外法の術によって消滅させた哀れな怪物。
ひょっとしたらうちは頭がおかしいのかもしれない。
経緯はどうであれ、うちはあの怪異に牙を剥かれ身体に突き立てられた。
皮膚は裂かれ、血もたくさん流れた。実際、コウが駆けつけてくれなければうちの命はなかった。
だけど、それなのに……。
固く目を瞑るとうちの瞼の裏に蘇って来るのは、あのおぞましおい怪物ではなくゴールデンレトリーバーのキグルミのようなアンディーの姿だけだった。
コウの言う通り、あの子は誰にとっても危険な化け物だった。
それは事実だ。
だけど、うちから受け取ったオヤツを美味しそうに食べたり、生前、飼い主である東雲さんに同居犬達とともに訪れた公園を見て無邪気にはしゃいだ姿にもウソはないはずだ。
だけど、あの子は飼い主である東雲さんの孫を噛み殺すという最悪の事件を引き起こした張本人でもあって……。
相反する感情の波が交互に押し寄せてきて、うちは息を詰まらせる。
納得のいく答えをいくら探しても堂々巡りでキリがなかった。
あの子を許したいが――、どうしても許すとは言えないうちがいた。
だったらせめて。
あの子のあの姿に相応しい世界に送ってあげることができるのなら……。
そこはきっとおとぎ話のような、夢の国のような場所なのだろう。
夢のように楽しいけれど、いつかは泡のように消えることが定めなのだと思う。
そこに本当の意味では救いはないのかもしれない。
だけど、裁かれることもない。
そんな場所にいつかアンディーが連れて行ってもらえるのならうちは……。
と、その時だった。
ボッと何かが小さく爆ぜるような音が聞こえた。
ハッとして顔をあげたうちの目に飛び込んできたのは――静かに燃えてゆくアンディーの首輪だった。その炎は周囲に燃え広がることなく、ただ首輪だけを静かに焼き尽くしてゆく。
「……神様。……アンディーのこと、連れてってくれたん?」
うちのつぶやきを肯定するかのように――、頭上のどこかで幼い子どもの笑い声と走り去る足音が聞こえた。
全身から張り詰めたものが解け、大きくうちは息をつく。
もう悲しくはなかった。心の底からの安堵感があった。
そして、うちは軽く目を閉じ唱え事を始めていた。
オン アロマヤ テング スマンキ ソワカ。
オン ヒラヒラ ケン ヒラケンノウ ソワカ。
(了)