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第2話

「まったく、佐知ってば。それは、身の程知らずだよ」

 副社長は私より八歳も年上の三十四歳で、去年副社長に就任したばかりだ。海外支社で修業をしたあと、ここ本社で本部長として活躍していた。

 長身で整った顔立ちの彼は、華やかで人の目を引く。性格は紳士的で、副社長に憧れる女性社員は多い。

 だけど誰一人、本気で彼を狙えるとは思っていないはずだ。もちろん、私だって……。


「えっ? 異動……ですか?」

「そうなんだよ。副社長の秘書の方が、家庭の事情で退職となってね。後任を、急いで決めないといけないんだ。そこで、人事も総務も役職者全員一致で、原田さんにお願いしようとなったんだよ」

 突然、上司である総務部長から呼び出され、なにか大事な話があるのだろうと予想はついていた。だけど、まさかの人事異動に驚きを隠せない。

「有難いのですが、秘書経験はまったくなくて……。大丈夫でしょうか?」

 それも、副社長秘書だなんて……。緊張しながら尋ねると、部長は目を細めて笑顔を見せた。

「大丈夫だよ。秘書経験がある人のほうが社内では珍しいくらいだから、心配しなくていい。事務業務が分かっていれば、引継ぎでほとんど理解できるはずだよ」

「そうなんですね。それでは、頑張りたいと思います」

 不安しかないけれど、人事異動を断ることはできない。期待してもらえたなら、精一杯やり抜くつもりでいる。

「よかった。急で申し訳ないが、来週異動になって引継ぎを受けてもらうから。よろしくお願いするよ」

「はい。よろしくお願いします」

 部長と話し終え応接室を出ると、自分のデスクへ戻る。すると、隣の佐知が声をかけてきた。

「乃亜、なんだったの? トラブルじゃないよね?」

 椅子を寄せた彼女は、声を潜めて心配そうな様子を見せる。そんな佐知に、私は同じく小さな声で答えた。

「人事異動だったのよ。副社長秘書に……」

「ふ、副社長秘書!?」

 声を上げそうになった佐知は、両手で口を塞いでいる。そんな反応をされ、照れくささを覚えながら頷いた。

「あとで、ゆっくり説明するね」

 大きく頷いた佐知は、目を丸くしたまま業務を再開させている。異動がまだリアルに感じられず、どこか夢心地だった……。


「凄いよ、乃亜! 副社長秘書に抜擢なんて、みんな羨ましがるって」

「ありがと。でも、総務部の事務経験だけだから、不安はあるのよ。なにせ、相手は副社長だし……」

 終業後、私と佐知はオフィスビル近くのカフェでお茶をしている。そこで異動の話をすると、佐知は目を輝かせた。

「乃亜なら、できるよ。普段から、電話応対も上手なんだし。慣れるまでは大変だろうけど、すぐ完璧にできるようになるよ」

「そうだといいな」

 苦笑すると、佐知は満面の笑みでテーブルから身を乗り出す。そして、興奮を抑えるように言った。

「副社長と、毎日一緒になるのよ? 羨ましすぎる」

「ちょっと、佐知ってば。だいたい、副社長は失恋したばかりかもしれないんでしょ? だったら、恋愛は懲り懲りだと思ってるかもしれないじゃない」

「それでもまた落ちるのが、恋ってものじゃない?」 

「まったく、もう……」

副社長秘書の異動を楽しみにしているのは、佐知のほうだと思う。もちろん、私も楽しみだ。

 ただ、業務以外でも不安なものがある。それは、副社長の私に対する反応だった。

さすがにしっかり顔を合わせれば、副社長はあの夜に声をかけたのが私だと分かるのではないかと思う。

 そのとき、どんな反応をされるかが気になるのだ。もし気づかない振りをされたら、ショックだけど副社長に合わせよう。

 私が求められていることは、副社長の秘書として滞りなく業務を進めることなのだから──。


「総務部から参りました、原田乃亜です。今日から、よろしくお願いします」

「よろしく。笹野(ささの)さんから、引継ぎをしっかりしてもらってね」

「はい、頑張ります」

 いよいよ異動の日となり、私は緊張しながら副社長の執務室で挨拶をした。初めて入る副社長室は、大きな窓が多くて開放感がある。木製の家具で統一され、副社長の知的で落ち着いた雰囲気にぴったりだ。

(私に、気づいてないかな……)

 副社長は、私を見ても表情ひとつ変えない。社内ですれ違っても気づいていないようだったし、私の顔は覚えられていないようだ。

 執務室を出て秘書デスクへ向かうと、笹野さんがにこやかな表情を向けてくれた。

「原田さん、マニュアルはここにあるから。ひとまず、難しいところから教えるね」

「はい、お願いします」

 笹野さんから引継ぎを受けながら、秘書の業務量の多さに驚いてしまう。細かな仕事が多く、しばらくは業務を覚えるだけでいっぱいそうだ。

 それにしても、笹野さんはとても仕事が丁寧で、副社長が使う資料に多くの配慮がされている。読みやすいように、理解しやすいように工夫されていた。

「私で本当にいいのか、ちょっと心配です。笹野さんのような細かな気配りが、できるかどうか……」

 初日から弱音を吐いてしまったけれど、それくらい業務のクオリティが高い。ため息を漏らすと、笹野さんにクスクス笑われた。

「大丈夫よ。最初は戸惑うことも多いだろうけど、マニュアルにだいたいのことは載ってるから」

「はい、ありがとうございます。副社長の業務なので、どうしても緊張してしまって……」

 笹野さんと比べると、私は社会人経験が浅い。彼女は三十代前半くらいで、副社長と年齢が変わらなさそうだ。美人で頭が良さそうな笹野さんは、副社長秘書の肩書きがぴったりだと思う。それだけに、自信が持てなかった。

「緊張するのは当然よ。だけど、副社長はとても優しい方だから、どうしても分からないことがあれば聞いても問題ないわよ」

「そうなんですか? お仕事には、厳しそうなイメージで……」

 目を大きくさせると、笹野さんは小さく笑った。

「もちろん、自分で知る努力は必要よ。でも、分からないまま勝手に進めるほうが、副社長は嫌がられるから」

「分かりました。どうしても分からないことは、副社長にお聞きすることにします」

 副社長と一緒に仕事をするイメージがまだ掴めないけれど、今日から私の直属の上司は彼になる。

 あの夜のことは忘れて、とにかく秘書業務に全力を注ごう。気を引き締めていると、笹野さんが声を小さくして言った。

「原田さん、副社長の噂って聞いてる?」


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