「また来たのかよ」
玄関のドアが開いた瞬間、元彼・隆の呆れたような声が飛んできた。息が荒くゼーゼー言う佐奈子は思わず目を逸らした。
「……ごめん」
そう言いながら、くたびれた足で部屋に上がる。ボロボロのスーツ、ほつれたストッキング、破れかけの紙袋。隆が目を細めたのも無理はない。
「お前、また仕事帰りか? その格好……」
「うん。ちょっといろいろあって……もう仕事辞めたいよぉ」
やはり気の知れた中だった彼女は元彼につい愚痴る。
「はいはい、わかった。とりあえず風呂入れ。話はそれからな」
佐奈子はふっと息を吐いた。玄関の空気が、やけに現実味を帯びている。化け物が出てくる心配もない。
──きっと疲れてあんな妖怪たちを見ちゃったんだよ。ここならもう大丈夫……。
思わず胸にこみあげる安堵感を噛みしめるように、靴を脱ぐ。
佐奈子と隆は高校生の頃から付き合い始め、大学3年まで続いた。就活の時期に、お互いの「働く」に対する温度差が浮き彫りになり、別れを選んだ。
佐奈子は「バリキャリ命! 働くのが生きがい!」な女。
一方、隆は「稼ぐのが男の使命! 妻と子どもは俺が守る!」を地で行く男だった。
佐奈子の両親は共働き、隆の家庭は父が会社員、母は専業主婦。その家庭環境が価値観を形づくっていたのかもしれない。
「今どき昭和すぎるのよ、隆! 共働き、育休、保活? 全部乗り越えてナンボ!」
あの頃はそんな風に言っていた。でも今の自分は──。
風呂に身を沈めた佐奈子は、ぼそっとつぶやいた。
「……無理だわ、こんなんで家事して育児なんて」
湯気に包まれながら、仕事の資料を抱えて走った帰り道を思い返す。まともに仕事すら回せず、怒られ続ける毎日。
「そもそも……仕事も、できてない」
ぽつりぽつりと落ちる言葉に合わせるように、涙がこぼれた。
そして少しうとうとしていたその時──
「おい、何やってんだ!」
いきなり風呂の扉が開いて、隆が駆け込んできた。驚いた佐奈子が湯船の中で目を見開くとそのまま隆に抱え上げられ、バスタオルで拭かれる。
「ちょ、ちょっと!」
「寝落ちすんなよ、溺れるぞ。……ったく前よりも酷いぞ!」
手早く体を拭かれ、かつて使っていた佐奈子用の下着とパジャマが押しつけられる。
「まだお前の服、残っててよかったわ。おじさんとおばさん、今実家いないんだろ? 一人暮らしでこれとか……よく今まで生きてたな」
佐奈子は恥ずかしさと情けなさと、ちょっとだけ安心とで胸の奥がぐちゃぐちゃになっていた。
「正直元彼だったからお前をこうしてやれたけど次の彼氏とか……呆れて捨てられるぞ!」
「捨てたのはどっちよ」
「捨ててはいない! ただ……距離を置いただけだ。なのにこうしてこうやって戻ってくるのってさ……」
二人は見つめあった。
元恋人同士、二人きり。パジャマ、夜。
やることは一つ……。
隆は、ごくりと唾を飲み込んだ。
「隆ぃ……」
「佐奈子……」
二人は抱きしめあった。
が。
「ごぉおおおお」
と地響きのようないびきを立てた佐奈子。それに隆はがっかりする。
「またこれかぁ……」
とがっかりして隆はお姫様抱っこして佐奈子をベッドに連れて行き、自分は葛藤を紛らわすためにソファーで寝た。