佐奈子は目を覚ました。
「寝坊したっ!!」
慌てて飛び起きるが、数秒後にカレンダーを見て気づいた。
「……あ、土曜日か……」
気が抜けて、再びベッドに倒れ込む。
昨日の怪異も、夢か幻だったのだろう。ここは現実、隆のマンション。何もおかしなことは起きていない。
「疲れて変なものを見たんだわ……」
机の上に置いたスマホを手に取り、画面を開く。未読のメッセージが一件。
《今日は研修。朝ごはんは冷蔵庫にあるやつ、適当に食べていい。
話は聞けなくてごめんだが……仕事辞めたいのならさ、もう無理すんな。転職考えた方がいい。前も無理だったろ? もう潔く退職代行頼んだら?》
以前退職届を出してダメだったことは隆も知っている。
メールの一文の下には、見覚えのないURLが一つ。
「……退職代行?」
リンク先の画面を見つめる佐奈子の顔が、じわりと歪む。
「誰かが退職手続きとかしてくれるの? 私の代わりに?」
と下の方までスクロールする。時間のない自分にとってはありがたいことだ。それに文章を考えるだけでも言葉尻を変に捉えられてしまうのではと考えると何度も書き直すのがストレスであったからだ。
「前から聞いてはいたけど頼るしかないかなー……」
だが佐奈子は絶望した。
『ただいまご好評につき予約がいっぱいでございます。予約再開までお待ちください』
との文言が。
佐奈子は検索で退職代行を調べるが軒並みどの会社もそうであった。
企業全般から病院、公務員、保育、教職など専門的なものからホストなどの夜職、ライブ配信者向けなど多岐に及んでいた。
「てかこんなにも退職代行会社あるの? 世も末だわ……」
ともはや他人事で笑うしかない佐奈子。
少し期待を抱いたが申し込みができない今は諦めざる終えなかった。
そして冷蔵庫を開けると、タッパーが整然と並んでいる。おかずやスープ、冷凍庫には作り置きのカレーやハンバーグ。
「……え、何これ」
彼自身が作った? それとも、彼女?
もし彼女がいるなら、昨日泊めるはずがない。
どちらにしても——もう自分は、過去の女だ。
未練なんて捨てなきゃいけない。
佐奈子は惣菜パンとペットボトルのコーヒーをバッグに詰め、置いてあった黒のロングワンピースに着替えると、静かに部屋を後にする。
『ありがとう』
短く礼を伝えるメッセージを送りながら、心の中で強く誓った。
もう、何があってもこの部屋には戻らない——。
が、現実はあっさりとその決意を裏切る。
エレベーターが止まっていた。
「うそ……15階なのに……」
そう思うと自分は昨晩どうやって15階まで上がってきたのだろうか。記憶にない。が流石に下りでも降りることは大変である。
パネルの前では作業員がせっせと修理作業をしている。仕方なく佐奈子は声をかけた。
「あの、すみません……作業中失礼します。階段ってどこでしょうか?」
作業員は震えながらゆっくりと振り返る。
その顔には大きな目が真ん中にあり、異様に赤く濁った目がのぞいていた。そしてその下に口。
「あっ……」
佐奈子は震えた。これはまさかと。
「……ここはしょっちゅう壊れるんですよぉおおお。一人で直せって……ううううう」
と泣き出したのだ。
「……んっあっあーーーー!」
佐奈子はまた現れた怪奇に叫び声も出ないほどだった。
「ああああっ……誰かっ……」