佐奈子は足がガクガクと震えた。
ふと横を見ると、自分たちと同じ”普通の人間”がこちらを見て震えている。助けを求めるような目だった。
真理恵は佐奈子の腕をぐっと掴み、足早に歩き出す。
「変に目を合わせないこと。依存されるわ」
「依存……?!」
「地縛霊よ。それに、うちの係の担当じゃないから」
「地縛霊――!?」
佐奈子が聞き返しても、真理恵はそれ以上答えなかった。
奥へ進むほどに、空気がますます異様になっていく。
そして、ふいに足を止めた。
「真理恵くん、ご案内ありがとう」
声がした方を見上げると、そこにはあの男――金剛寺魅夜が立っていた。
「橘川佐奈子さん、ようこそ……極楽市役所心霊妖怪課就職支援部退職代行係へ!」
にこやかに手を広げる魅夜。しかし、佐奈子は以前見た彼の赤い目と翼の幻影を思い出し、思わず後ずさった。
背中に何かがぶつかる。
「すみませ……んっ!!」
振り返ると、そこにいたのは――顔のないタクシー運転手だった。
あの夜、佐奈子を乗せた……。
「あら、こないだはどうも……ここの社員さんでしたか?」
「いえっ、その……違います……」
佐奈子は必死に首を振るが、真理恵が顔なしタクシー運転手を手招きする。
「本日は退職代行の件ですね。あちらで書類を書いてくださいね。――佐奈子さん、とりあえず、今はご案内だけ」
言われて振り返ると、ロビーには何人もの妖怪たちがうろついていた。
目が合った瞬間、ずるりと寄ってこようとするものもいる。
佐奈子はペタンとその場に座り込み、
「無理ぃいいいいっ!!」
と叫んだ。
だが、魅夜は落ち着いた様子で妖怪たちを手際よく、それぞれの受付や手続きへと振り分けていく。
その様子を見届けると、魅夜はため息をついた。
「夜、あなたが走っているのを見て、それなりに根性がある方だと思ったのですがね」
魅夜も佐奈子のことに気づいてたのかと驚く。
「……根性というか、終電に乗り遅れたらいけないって、それだけで……」
佐奈子はしどろもどろに答えた。
「ほぉ……」
魅夜は興味深そうにうなずく。
「それに……あなたの走り方やペース配分を真似してみたら、コツも分かってきて」
「なるほど。分析力や改善力はある、と」
魅夜はニヤリと笑った。
その笑みが何かを企んでいるように見えて、佐奈子は身構えた。
ふと、ある重大なことに気づく。
「……てか、私、前の仕事辞めてないし……退職届も手続きもしてないし、そもそも、市役所に勤めるには……試験とか、いろいろ……」
すると魅夜の目があの時のように赤くなった。佐奈子は声が出なくなる。
「カバンの中に退職届がありました」
「えっ、人のカバンを……いやその、あれは書き損じで……」
「こちらのサービスで退職届代行ライティングで添削しまして……」
「添削?!」
魅夜は頷いた。
「ええ、スムーズに退職できるように」
「てか私……確かに仕事辞めたかったけど……引き継ぎとか……えっ……」
とにかく混乱する佐奈子。
「全てやりました、そして即日退職、ですからこうして今ここで働けるのですよ。さぁ、立って、時間はない」
「ここで働く意思表示ってしましたっけ?!」
まだ業務内容など全く聞いていない。そしてここで働くことも決めていなかったが。
また魅夜の目が赤く光った。
「あなたに振り向くなと言って僕のことを知ってしまいましたからね……」
「すいません……」
魅夜は元の瞳の色に戻ってなかった微笑んだ。
「では、こちらへ」
佐奈子は立ち上がり魅夜について行くことにした。