のっぺらぼう――彼もまた、もとはただの一人の人間だった。
あの日、交通事故に巻き込まれ、命を落とした。
それだけなら、静かに成仏していただろう。だが、彼の魂には、事故の原因を作った”友人”への恨みが深く刻みつけられていた。
許せなかった。
裏切られたような痛みが、魂に澱のように溜まった。
そしてそれは、死後も消えることなく、彼を地縛霊へと変えた。
地上に囚われた彼は、やがて人間の形を失った。
顔を失い、名前も忘れ、ただ怨念だけを握りしめた存在――のっぺらぼうとなった。
憎しみは、ついに行動へと変わる。
生き残った”友人”を、彼は妖怪の姿で襲った。
それは復讐だった。
「娘も生まれたばかりで……幸せしかなかったのに。友人は……無謀な運転をして……事故を起こした。自分だけ助かって、私は死んだのです……」
しぼり出すような声だった。
佐奈子は胸が締めつけられるのを感じながら、静かに頷いた。
「そうだったのですね……」
そっと寄り添うように声をかけたその時、隣にいた魅夜が首を横に振った。
「ここで同情してはいけない。情を挟めば、こちらの心が壊れる。話は聞く。ただそれだけだ。冷静に、適切に処理しなければならない」
「……はい」
佐奈子は背筋を正した。
だが、ひとつどうしても気になったことがあった。
「それで……なぜ、のっぺらぼうさんはタクシー運転手に?」
魅夜は少しだけ表情を和らげると、静かに答えた。
「成仏せず、妖怪や幽霊となった者たちは、現代の人間を害してはならない。もし破れば……除霊士によって捕らえられ、閻魔様のもとへ送られる」
閻魔様。
漫画やアニメでしか見たことのない存在――それが現実に、と佐奈子は思わず目を見開いた。
ちら、と視線をやるとのっぺらぼうは、汗を滲ませながら震えていた。
「……閻魔様は、怖いんでね……す、すみません」
か細い声で謝る様子が、かえって現実感を引き立てる。閻魔様を見たものしかわからない恐怖。
「妖怪や幽霊が人を殺めた場合、閻魔様の前で裁きを受ける。そして二つの道が提示される」
魅夜は指を二本、軽く立てた。
「地獄での永久懲罰か、あるいは――人間の姿に戻り、人間界で寿命が尽きるまでの永久就労か。君なら、どちらを選ぶ?」
想像しただけで、背筋が凍った。
禍々しい地獄の果てしない懲罰と、人間界での終わりなき労働。
佐奈子はわずかに唇を震わせ、それでも即答した。
「……地獄より、人間界で働きます」
魅夜はふっと笑みを浮かべた。
どこか予想していたような顔で。
「やはりな。地獄の懲罰は想像以上に厳しい。だが……人間界での永久就労――これもまた、地獄に勝るとも劣らぬ苦しみだ。社畜だった君には……わかるだろう?」
「……あああ……」
言葉に詰まる佐奈子。
思い当たる節がありすぎて、否定できなかった。
だが、それでも――
(それでも私が知ってる“地獄”よりは……マシだと思ってしまった……)
そんな自分を、少し恥じた。
「でも……もし、タクシーの仕事が辛いなら、それを続けさせること自体が懲罰なのでは?」