「このあと、辞めたい理由を本人に確認する予定だ。彼の言い分はこのシートにまとまっている」
そう言って、のっぺらぼうが差し出したシートを佐奈子が覗き込むと、
『勤務時間が長すぎる』
『待ち時間が長い』
『短距離利用者が多く稼げない』
といった内容が並んでいた。
「ありがちな理由ですね。これ、どう扱うんですか?」
「勤務先に連絡を取る。タイムカードや勤怠データと照らし合わせて、本人の退職希望を伝えるんだ」
地味な作業だな、と佐奈子は思いつつ、のっぺらぼうを見やる。
「上司が怖くて、辞めたいと言い出せないらしい」
(いや、あなたも十分怖いですから! 赤の他人の私たち相手に言えたの、すごいですよ……)
「まあ、赤の他人にすら厳しいような会社なら、相当ブラックだろうけどな」
魅夜が肩をすくめて言う。
佐奈子は少し不安になる。もし電話口で怒鳴られたりしたら、どうすれば……?
と、その心配を見透かしたように、魅夜は続けた。
「安心しろ。もう連絡は済んでいる。電話に出たのは女性社員で、穏やかな口調だった。むしろ“なぜ退職したがっているのか分からない”と、戸惑っていた」
のっぺらぼうは頭を下げる。どうやらのっぺらぼうのわがままなのだろう。
勤労条件はきつくはないとの返答だったらしい。
「だがそれがのっぺらぼうにとって割に合わずそれがストレスになったようだ」
なんだか普通の人間と変わらないじゃない、と佐奈子は察した。
「退職代行だけどこのまま退職を貫き通すのですか?」
佐奈子がそう言うと魅夜が指を刺して
「いいところついたね!」
と。
「もちろん退職代行だから退職すればそれはそれでいいのだが……中には就労条件のすり合わせをして退職せずそのまま働き続けることもできる」
「はぁ……とりあえず不満を持って凶悪な幽霊や妖怪になってしまわないように、かつ働き続けさせればいいってことですよね?」
魅夜は笑いながら頷いた。
「そうそう。うちの基本方針は“成仏より安定雇用”。人間社会で揉まれながら改心してもらうのが目的だからね。それがダメなら地獄での永久労働だ……どっちがいいかな?」
のっぺらぼうは所在なげに手をもじもじと動かしながら、申し訳なさそうに首をすくめた。
「……もう少し、楽な現場がいい……」
「はーい、そういうのは“希望シフト申請”の欄にちゃんと書こうね」
魅夜がタブレットを手に、まるで小学生に言い聞かせる先生のように笑う。
佐奈子は思わず吹き出しそうになった。
(こんな調子で、人間界で働く妖怪たちを支えてるって、改めて不思議な職場……)
「それじゃあ、交渉開始だ。佐奈子くん、勤務先に電話して」
「えっ、私が!?」
「実地訓練だ。のっぺらぼうの未来は、あなたのトークにかかってる!」
佐奈子はごくりと息をのんだ。
(人間相手の交渉でも緊張するのに)
でも、目の前ののっぺらぼうはどこか人間臭くて――
だからこそ、放っておけないと思った。
「……わかりました。やってみます」
そう言って、彼女は受話器を手に取った。