佐奈子は電話を受け取り、深呼吸をひとつしてから発信ボタンを押した。呼び出し音ののち、すぐに応答があった。
「はい、○○タクシー人事部でございます」
「あっ……お世話になっております。退職代行を担当しております、橘川と申します。〇〇さんの件でご連絡いたしました」
「ああ……はい、〇〇さんの件ですね」
女性の声は確かに穏やかで丁寧だった。けれど、どこか“壁”のようなものを感じさせる声色。
「前回のお電話でも少し伺いましたが、改めてご本人からの希望で退職の意思をお伝えするためにご連絡しております」
「そうですか……でも正直申しまして、弊社としては困惑しておりますのよ」
困惑。明らかに防御の姿勢だ。
「勤務シフトも法令に基づいて組んでおりますし、本人の希望に合わせて調整もしていたつもりです。それでも“きつい”“合わない”と感じられたのは……そちら様の主観ということになりますよね?」
(言葉は丁寧だけど、のっぺらぼうのせいって言ってる……)
佐奈子はチラリとのっぺらぼうを見やる。だが、目がない。目が合わない。
(なんでよりによってこの人がのっぺらぼう……表情が読めないのが地味にキツい)
「えっと……御社に非があると申し上げる意図はありません。ただ、本人が心身ともに負担を感じており、このまま勤務を継続するのが難しいとのことで……」
「うーん……そう仰られても、他の方は問題なく働いてますし。ましてや、あの方は新人でもありませんからね。突然辞めたいと仰っても、こちらとしては“無責任”と感じざるを得ないです」
やんわりと、しかし確実に釘を刺してくる。
佐奈子は軽く唇を噛む。そして……。
「確かに、ご迷惑をおかけすることは重々承知しております。ただ、それでも本人にとっては限界だったようで……。どうか、円満なご対応をお願いできませんでしょうか」
一瞬、沈黙が流れる。
「……わかりました。退職の意志は、確かに承りました。ただ、業務の引き継ぎや制服の返却など、手続きはきちんと進めていただきますように」
「もちろんです。こちらから責任を持って対応いたします。ありがとうございます」
電話を切ると、佐奈子は小さく肩の力を抜いた。
のっぺらぼうはただ黙って、ぺこりと頭を下げた。そしてしだいにのっぺらぼうの顔が人の顔になる。
「えっ!!」
その様子に声を出してしまった佐奈子。魅夜と受付の女性からシー! と注意され佐奈子は謝る。
どこにでもいそうな30年代の男性の顔。
「……たしか……車の事故で亡くなったんですよね? なのにタクシーの運転手……車以外のお仕事の方が……」
と佐奈子がつい口にしてしまったが魅夜が書類をパソコンで打ち、出来上がったものを印刷した。佐奈子のことは無視してのっぺらぼうに伝えた。
「ではこちらでの手続きは終わりました。こちらは仮の書類です。すぐこのあと再就職課に行きまして次の仕事の手続きに行ってください」
「……はい、ありがとう……ございました」
とのっぺらぼうは去っていく。
「佐奈子くん。ここは“退職代行”の場。彼が次に何の仕事をするかまでは、私たちの管轄じゃない。そこまで口を出していたら、身体がいくつあっても足りない」
「すいません……余計なことを」
「あと、情は持たないことはもちろんだ。にしても最初から電話の仕方も完璧でしたね」
褒められて少し嬉しい佐奈子。あまり前の職場では褒められなかったからだ。
「ただし今回は相手が良かった、まだ穏便に済んだ。チュートリアルとしては良かったと思いますよ……」
魅夜もほっと一息。佐奈子もフゥ、とため息をついた。
「さて、それでは……その隣に座って」
「はい?」
佐奈子は目を丸くした。
「先ほどはチュートリアルでした。まだ16時の終業まで時間あります。後ろも並んでますよ」
佐奈子は目の前のことに集中してて待合で待つ多くの妖怪や霊の姿の塊を見てヒィイと慄く。
「さぁ、こっから本番だよ……」
「はいーーー!」