(隆には……なんて言おう。退職代行のこと教えてくれたのもあるし……でも、さすがに今夜もあの家に行くなんて無理があるよね。元彼の家に行くなんてさ……)
こんなに明るい時間に外を歩くのは久しぶりで、佐奈子はやや落ち着かない気分のまま、魅夜と真理恵とともに市役所の建物を出た。
「皆さんって、どうやって帰るんですか?」
そう尋ねると、真理恵がふわりと笑った。
「私はここから歩いてすぐにある社員寮。もう長いこと勤めてるからね」
「へぇ、寮があるんですね……いいなぁ」
「お疲れ様でした〜」と手を振って、真理恵は魅夜と佐奈子と別の方向に歩いて行った。
「君も頑張れば寮を利用できるさ」
そう言って魅夜は、なぜか道路の真ん中でいきなりストレッチを始めた。
「ちょ、ちょっと、まさか……走るんですか?」
「ええ。通勤は走ればあっという間ですからね」
(いや、あの翼があれば飛べるんじゃ……)
内心ツッコミを入れつつ、佐奈子は自分の足元に目を落とした。
(……えっ、いつの間にランニングシューズ!?)
彼女が履いていたのは、確かに今朝までは通勤用のパンプスだったはず。
しかし今は、まるで初めからそうだったかのように馴染んだスニーカー。そしてバッグもショルダーからリュックタイプにチェンジできるものであった。
「さぁ、君も準備運動を」
魅夜がにっこり笑った。
佐奈子も思わず頷いて、軽く準備運動を始める。すると魅夜は唐突に駆け出した。
「ちょ、ちょっと待って!」
佐奈子は慌ててその背を追う。
毎晩、魅夜が何者か知らない頃も——ただ足の速いお兄さんだと思っていた頃も——駅まで彼と一緒に走っていた日々を思い出す。
「通勤と、夜に走るのが好きでね。走ってると楽しくて仕方ないんですよ」
「私は楽しくなんてないですからね! 終電に間に合えばそれでいい、ただそれだけの理由で!」
軽快に走りながら話す魅夜に合わせて佐奈子も声を上げる。でも、不思議と息が苦しくない。
むしろ、心が軽くなっていく。
「これから毎日通勤を一緒に走りましょう。方向は同じですし、今日も家まで送っていきますよ」
「え、いや、そんなことしなくて大丈夫ですって……」
そう言っても、魅夜は聞こえていないのか返事をしない。
(……ていうか、私の家って知ってるの!? 個人情報、完全に把握されてるんだけど……やっぱり、あの赤い目と翼見ちゃったからかな。しょうがない、か)
佐奈子はやや諦め気味に、ただ黙ってついていく。
「出勤はいつも、電車で立ったまま寝ちゃってて……気づいたら最寄り駅、みたいな毎日でしたよ。どんだけ疲れてたんだか」
気づけば笑いながら話していた。
「何とも不健康ですね。この職場は、健康第一ですから」
「ですよねー!」
走るうちに、体がどんどん軽くなっていく気がした。
(走るの嫌いだったのにな……なんか楽しい……)
しかし、ふと気がつくと周囲の景色が変わっていた。
人通りは少なくなり、街灯もまばらで、見覚えのあるような……でも普段通らない道。
(あれ……? ここ、私の家までの道じゃないよね)
けれど、魅夜の足取りは止まらない。
そして、ある瞬間。
(……この先って、たしか……)
足が自然とゆっくりになり、止まった。
目の前に広がっていたのは、極楽市の山裾にある古い寺——縁覚寺。そしてその隣にある墓地。
「着きました。あなたの家です」
魅夜が静かに言った。
佐奈子の目に映ったのは、整然と並ぶ墓石の中のひとつ。
「橘川家」と刻まれた、墓標。
「……確かに、ここはうちの墓です。祖父母の……遺骨があるのは、知ってる」
佐奈子はゆっくりと魅夜を見た。
背筋をつたう汗が冷たく感じられた。
「だから、ここがあなたの家です。——橘川佐奈子さん」
「……どういうこと?」
佐奈子はしゃがみ込んだ。そして墓石の名前に祖父母と自分の名前があるのに気づくのであった……。
「どういうこと?!」