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第十二話

 和樹は仁愛の感情を、敏感に察知していた。


「私は和樹さんに対して、どんどん好意を積み重ねていってます。橘和樹という男性個人の魅力に、やられそうです。ここで感情に流されて襲われるのは本意じゃないですが、心の底から嫌だとも思えないんです。だいぶ混乱していますが、わかってもらえます?」

「うん……うん。わかる」

「だからその、いつか、いつか偽装でも契約でも、政略でもないお付き合いができたら、嬉しいな、と思ってます」

「それは、僕もそう、思ってる」

「えへ。そのお返事だけで嬉しいです。今はそれだけで満足です」

「仁愛、君はとても素晴らしい女性だし、君のような人とは二度と出会えないと思う。きちんと僕を僕として見てくれるし、かわいいし、色っぽいし、なにより聡明そうめいだ」

「そんな……感激です」


 和樹の言葉が、仁愛の身体に染み渡っていく。


「凛月は最期さいご、僕に幸せになれと言った。仁愛に出会うまでそんな人生はあり得ないと思っていたけれど、僕を幸せにしてくれる人がいるとすれば、君しかいない。それは断言できる。だからこそ、僕は仁愛が嫌がることをしたくない。ずっと隣で笑っていてほしい。そのためにも、感情に流されないように自制する精神力を身につけるよ」

「ん~~! そういうところが、かっこいいんですよ!」

「そうかな」

「そうです。和樹さんはやっぱり素敵な男性です」

「あ、ありがとう」


 仁愛の気持ちを確認できた和樹は、快楽に溺れるという短絡的なものより、ずっと恒久的な幸せの片鱗へんりんつかめた気がした。

 だからこそ、ここで仁愛に手を出してはならない。そこまで思考が至った時、どうして仁愛がこんな大胆なことをして、和樹の心をかき乱したのかを理解した。


「仲達、か……」

「あは。ばれました」


 仁愛が微笑み、和樹が苦笑した。


 兵法三十六計、第三十二計〝空城計〟。


 これは三国志にあるしよく諸葛亮しよかつりよう孔明と司馬懿しばい仲達が戦った時に使われたのが有名だ。


 孔明は司馬懿に破れて敗走し、城にこもる。この時、司馬懿の兵は蜀軍よりも数倍いた。そのまま城攻めをすれば確実に勝てたのだが、孔明は城門を開け放ち、城壁で琴を弾く。

 これまで散々、孔明の権謀術数で煮え湯を飲まされていた司馬懿は、これもわなであると誤認して引き上げた。


 これはつまり〝敗戦の計〟であり、仁愛の状況である〝混水摸魚〟を打開するのに、最も適した策だった。

 しかしこれは、和樹が孔明に匹敵する才能を持つ司馬懿のように優秀だからこそ成せたことで、なにも考えられない人間に対しては効果がない。


 仁愛は、いくら契約という抑止があるとはいえ、俎上そじようこいと同じ状況なのは間違いなかった。強引に迫られたらあらがえない。

 しかしそれを良しと思わなかったからこそ、えてこのダブルベッドという戦いの地で城門を開ける行為をして、和樹の理性を呼び起こし、難を逃れたのだ。

 そこまで思考が至ると完全に和樹の頭は冷め、身体から熱が引いていた。


「まったく……なんて人だ、君は」

「仕方がなかったです。これからも和樹さんと暮らすためには、私から和樹さんを誘うか、和樹さんが手を引くかしかありませんでしたから」

「契約結婚の第二条、第一項だよね」


 第2条 甲(和樹)と乙(仁愛)の関係について

 1.甲は乙に、強引な性的交渉を求めないこととする。


 仁愛はこの条項について、裏を返せば〝仁愛から和樹に性的な交渉を求めるのは許される〟と判断した。これは仁愛にとって、本当に博打ばくちだった。もしこの夜、どこかで和樹が理性のたがを吹き飛ばして獣になっていたら、なんの抑止にもならないからだ。


 しかし、それは和樹にとって失うものが多い行為である。

 それを和樹がしっかり起きている時に、正直さという錦の旗を突きつけることで、仁愛は和樹の本性を探れた。もちろん、仁愛はここで処女を奪われても仕方ないという覚悟はしていた。

 だからこそ、この捨て身の策が和樹に効いたし、仮にそうなったとしても、案外許してしまうかもしれないな、とも思っていた。


「真面目な和樹さんです。私とは契約関係なので、それはちゃんと守ってくれると思いました。だから、賭けとしては分があるものでし――」


 次の瞬間。

 和樹は突然、仁愛におおかぶさった。

 あれ? と硬直する仁愛。

 もしかしたら、和樹のプライドを刺激してしまったかもしれない。


 やりすぎちゃったかな、と、目をつむる仁愛。

 すると、額に柔らかな感触があった。

 おそるおそる目を開くと、色っぽい和樹の鎖骨が目に入った。

 額に、キスされていた。しかも長くて、甘い。


「うぅ……んっ……」


 再び仁愛の女性が、湿り気を帯びる。

 自然と声が漏れた。

 やがて額からぞくぞくする感触が離れると、間近に和樹の顔があった。


「こ、これくらいは、許されるかな?」


 和樹が申し訳なさそうに言う。


「ぐ、グレーです。普段ならともかく、こんな状況でだと……その、うう……」


 感じてしまう。

 などとは、とてもではないが言えなかった。


「確かに今は時期尚早だと思うけど、僕だって男だから。忘れないで」

「承知しています。そして私も、女です」

「うん。でも、もし僕が暴走して、君を襲ってしまっていたら、どうしてた?」

「ん!」


 仁愛は指で枕の奥にある棚に置いたスマートフォンを指さした。


「これ、録音アプリが起動中です」

「え!?」


 和樹の顔色が変わった。


「私は和樹さんがどんな趣向がお好きなのかを知りません。相手が和樹さんなので襲われるのも犯されるのも覚悟していましたが、やっぱり無理矢理むりやりとか痛くされるのは嫌です。だから保険として、この会話を録音させてもらっています。もし和樹さんが暴力で快楽を得るタイプの人でしたら、どんなに普段いい人であろうと、信頼できません。なので思いっきりあらがう声をあげて、明日、これを持って警察に行くつもりでした」

「お、おお……」


 和樹は心底、仁愛に手を出さなくてよかった、あぶなかったと、安堵あんどいきをついた。


「これでも、ちょびっとだけ好意を混ぜたつもりですが」

「うん、わかってる」


 仁愛は言葉の中に〝和樹なので〟と加えた。

 つまり和樹だったら、なにをされても構わない。ただ、され方に問題があった場合は戦うぞ、という想いを込めていた。そんな仁愛が、心底愛しく思った和樹は、もう一度、額にキスすると、身体を翻して仁愛から離れて背中を向けた。


「おやすみ、仁愛」

「なんですかそれは! 眠れません!」

「あははは」

「あはは、じゃないです!」


 和樹の真っ赤な顔を、薄暗いベールが隠す。

 仁愛も和樹に背を向けたが、少しだけ和樹寄りに距離を縮める。

 すると、とん、と、仁愛の背中に何かが当たった。

 和樹の背中だった。


「これは許される?」

「は、はい」


 仁愛は困惑しつつ、笑みがこぼれた。

 不思議だった。

 和樹のぬくもりからは、安心感が流れ込んでくる。

 とても気持ちがよかった。


「あったかいね」

「あったかいです」


 ああ、このままどんどん好きになってしまうのか。

 その想いはあらがわず受け入れようかな、という考えに至っていた。

 契約があるとはいえ、和樹は仁愛を襲わなかった。

 それどころか、優しさで包んでくれている。


 なにより、これは仁愛を大事に思ってくれているからこその行動だ。

 背と背を合わせながら、仁愛は明日の結婚式という大戦に勝つためには、和樹ほど頼もしい人はいないと、改めて思った。


 孫子の第六章虚実篇の一に〝善く戦うもの、人を致して人に致されず〟とある。

 これは戦上手は、敵の策には乗らず、逆にこちらの策にうまく乗せる、という意味だ。

 今回、敵をファーストアイとアルオンの幹部、そして仁愛と和樹の親だと想定すると、仁愛の政略結婚は敵の策に他ならない。


 そして和樹も同様で、次男であるが故の強引な婚姻は、政略結婚と同じだ。

 これに対するためには、なんとしてもこの偽装結婚をやり通さなければならない。

 その最大の山場である〝結婚式〟を、和樹と乗りきろう。

 敵の策を逆手に取り、三略結婚というこちらの策で操るのだ。


 仁愛はそんな決意を胸に、頼もしい男性の温もりを背に受けて、眠りへと落ちていった。



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