「うちのチーム、午後からプレゼンがあるんです。すみません、お先に失礼しますね」
「あ……うん。プレゼン、頑張ってね」
はい、と軽く微笑んで頷いた染野さんは、空になったお皿を返却口まで運んでいく。食堂を出る前に、彼女はもう一度私を振り返って会釈してから去っていった。
先日、王司さんに取り乱していた姿とはまるで違う。染野さんも、きっととてもショックだったに違いない。
スマートフォンを取り出して、ブラウザアプリを立ち上げて『カシェソワールグループ』と検索する。
検索結果に出て来たカシェソワールのホームページを開き、会社情報へ行くと会長の名前が書いてあった。西園寺巧。顔写真も載っていて、それは確かに昨日見た西園寺さんに目鼻立ちがとてもよく似ていた。
詰まった胸の苦しさを吐き出すように、小さく息を吐く。スマートフォンをもう一度ジャケットのポケットに仕舞った直後。「久遠さん」と名前を呼ばれ、振り返れば王司さんが立っていた。
「王司……さん……」
「お疲れ様。今日は、食堂でお昼?」
「は……はい。ちょっと節約、しようかなって」
そっか、と彼はいつも通り朗らかな笑みで頷く。
その笑顔の裏には、一体どんな顔を隠しているの……?
「王司さんは、どうしてここに?」
「食堂のコーヒー、美味しいんだよ。だから、食後にはいつも飲みに来ててさ」
これ、と彼は手に持っている紙コップを私に見せてくれる。それから当たり前のように、私の前の席に腰を下ろした。
ほろ苦いコーヒーの香りがふわりと舞って、私の鼻をくすぐっていく。
「それ、久遠さんの手作り? 美味しそうだな」
王司さんが私の、まだほとんど手を付けていないお弁当箱を覗き込む。元々なかった食欲は、さらになくなっていってしまった。いつも通りの優しい言葉の裏を変に勘ぐってしまって、心がどんどんと重たくなる。
胃と胸の真ん中あたりが、そわそわと落ち着かなくて、ときどきズキンと痛むような気がした。
「久遠さん?」
私の態度がおかしいことに気付いたのだろう。
王司さんが私の名前を呼ぶ。けれど、俯いてしまった顔は上げることができなくて。王司さんの目を、私はとても見られそうにない。
「体調悪い……?」
テーブルの上に置かれていた王司さんの手が、そっと伸びてくるのが分かった。けれどそれは、「伊月」という女性の、食堂に凛と響く声によって遮られた。
「ここにいたのね、探してたのよ」
声からも伝わって来る上品さ。顔を見なくても分かる。
「ああ、茜」
王司さんの声で紡がれる名前に、自分の喉が狭まるのを感じる。
「コーヒー飲もうと思って」
「本当に好きね、ここのコーヒー。私も買ってこようかしら」
「ああ、それなら俺が買ってくるよ。久遠さんも――」
「……しないで……」
その言葉は溢れるように、私の口から零れ出た。けれど、狭まった喉のせいでひどく掠れて、何を言っているのか王司さんたちには聞こえなかったのだろう。
「ごめん、聞き取れなかった。もう一回言って、」
「優しくしないでくださいって言ったんです!」
顔を上げる。目が合う。腿の上で握った拳には、爪が食い込んで痛いくらいだ。
王司さんが、言葉を飲み込むのが分かった。彼は、「えっと……」と言葉をまごつかせる。西園寺さんが、ちらりと王司さんに視線を向けたのが分かった。
まだ三分の一も食べ終わっていないお弁当箱を、荒く片付ける。パステルブルーのランチバッグの中に、おかずがいくつか飛び出してしまったけれど、そんなこともう気にしている余裕もなかった。
「失礼します」
二人に頭を下げ、逃げるように席を立つ。
「待って」
私の背中を王司さんの声が呼び止める。けれど、私はそれを振り切るように食堂を飛び出した。
食堂があるのは、10階。企画部があるフロアに戻るためにエレベーターホールのボタンを押す。けれど今は、お昼から戻ってくる人が多いのかなかなか上がって来ない。
もう、と小さく不満を零し、非常用の階段を使って下りようとした私の腕を、不意に誰かが掴んだ。
「待って、久遠さん」
振り向けば、王司さんがいて、焦った表情で私を見ている。
「離して」
掴まれた腕を振り解いて、階段へと続く扉を開け、駆け足で下っていく。その後ろを王司さんも追いかけてくる。
「ついてこないでください」
「それなら、話を聞いて欲しい」
「王司さんから聞く話なんて、何もありませんから」
階段半分ほどの差。先を行く私と、少し上にいる王司さんの声と、階段を慌ただしく下りていく二人の足音が響く。
「どうしてまた急に俺を避けるんだよ」
「話したくないです」
「そんなの答えになってないじゃないか」
だから、と言い返そうとした拍子、強く床についた左足に、ピリッと痛みが走る。腫れはほとんど目立たないが、無理に動かすとまだ痛みが出ていた。
その弾みで、たたらを踏んだ私を、その間に距離を詰めていた王司さんが受け止めた。
そのままの勢いで、階段の踊り場の隅に追い込まれる。あっという間に逃げ場がなくなってしまった。
「……離れて」
「離れたら君、また逃げるだろう」
「それは……」
王司さんの体が近い。その胸を押して、距離を取ろうとしても上手くいかなかった。
「優しくしないでって、どういう意味?」
王司さんの声が、ひとつトーンを落とされる。真剣みを増した声色に、喉が渇いた。唾を無理やり飲み込む。
「そのままの意味です」
私の顔を覗き込もうとする王司さんから逃げるように、視線を斜め下へと外す。
「どうして俺から逃げるの? 俺には久遠さんしかいないって言ったこと、信じられない?」
「それは……!」
目が合う。王司さんは眉間に皺を寄せ、とても傷ついた顔をしている。私は一度、自分の唇を噛んだ。
(そんな顔、私のほうがしたい……)
「王司さんの言ってること、信じたいって思いました。でも、無理です」
「どうして……」
「だって、王司さんには婚約者がいるんですよね? 西園寺茜さん。知っていますよ、私」
私の口から出た西園寺さんの名前。その名前を聞いた瞬間、王司さんの瞳が微かに見開かれたのを私は見逃さなかった。
その表情だけで分かる。
佐々木くんが言っていたことも、染野さんが教えてくれたことも、全部全部本当なんだって。
「婚約者がいる方とお付き合いすることはできません。言葉を信じることもできません。私は、あなたの運命の人なんかじゃない。だから……」
目の奥が熱い。鼻の奥が、ツンと痛んだ。どうして私、こんなにも泣きそうになっているのだろう。
落ち着かせようと吐く息が震える。私を閉じ込める王司さんの胸を押すと、今度は簡単に彼は後ろへと足を引いた。
「だから、もう、私には優しくしないでください」
さようなら、と彼の横をすり抜ける。視界の端に項垂れ立ち尽くす王司さんの姿が見えたけれど、もうこれ以上彼と話すことはなにもないと、目を逸らした。
企画部のある5階の鉄製の扉を開ける。
「うおっ」
「うわぁっ、って、久遠さん?」
偶然その前を佐々木くんと百合川さんが通りかかるところだったようで、ひどく驚いた声が聴こえて来た。
階段を駆け下りてきたせいで息を切らす私を、2人は怪訝そうな顔で見ている。
「階段で下りてきたんですか?」
佐々木くんが言った。
「うん、エレベーターが全然来なくて」
「でも、午後の始業までまだ時間あるのに」
「たまには運動っていうか」
それから百合川さんに笑って返す。額に滲む汗をハンカチで拭った。
「先輩、なんか目と鼻が、赤いですけど……」
「ああ! 埃! 階段、なんだか埃っぽくて。ああー、目が痛い」
デスクに戻ったら目薬差さなきゃ、と返す。我ながら、ひどい嘘だと思う。けれど2人はそれ以上、私に深く聞いてくることはなくて、それがとてもありがたかった。