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第16話 私の気持ち

「伊月……やっぱり、あなたにちゃんと説明していないのね」


 そう言って、溜息とともに続けられた言葉は、とても耳を疑うようなものだった。


「伊月は、ずっとあなたのことが好きだったの。だから、もし久遠さんが少しでも伊月のことが好きなら、考えてあげて欲しい」


 どうして、王司さんの婚約者である西園寺さんが……本来であれば、目の敵にだってしたいはずの私に、そんなことを言うのだろう。


「ちょ……ちょっと待ってください。話に全然、ついていけていないです」


 手のひらを向けて西園寺さんにストップをかける。頭をフル回転させて言葉の意味を理解しようとしても全く理解ができなくて、頭を抱えた。

 言葉は頭に入ってくるのだけれど、その言葉に込められている意味が分からない。


「順番に、話しましょう」

「ええ、そうね」


 西園寺さんは静かに頷いた。


「西園寺さんと王司さんは、婚約関係にあるんですか?」

「ええ」


 こくり、と彼女は頷く。ではなぜ、と続けようとした私を、今度は西園寺さんが止めた。


「でも、幼いころに私と伊月の親同士が決めた婚約なの」

「え……?」

「幼稚園に上がるか、上がらないか。それくらい小さいとき。恋の『こ』の字も知らないようなころよ」


 ふふ、と西園寺さんは肩を竦めて微笑む。


「私たちの間に恋心はなかったわ。それは、今も、昔も」

「で、でも……とても仲が良いです……よね」


 下の名前で呼び合ったり、腕に触れたり。距離が近いことを指摘すれば、西園寺さんは少し考えてから「ああ」と相槌を打った。


「私と伊月は、同じような家庭で育ってきたの。親同士が決めたとはいえ、婚約者だから顔を合わせる機会も多くて。いわゆる、幼馴染……というのかしら。私も伊月も、お互いに抱いている感情は、戦友であったり、親友に近いと思う」


 それで誤解させてしまったのね、と西園寺さんは軽く目を伏せた。それから、膝の上で手を揃えて、私に対し「ごめんなさい」と頭を下げる。


「そんな……謝ることなんて、なにも」


 顔を上げてください、と慌てて顔を上げてもらう。西園寺さんは「伊月にも悪いことをしたわ」と眉を下げた。


「私たち、高校生のころに約束したことがあるの」

「伊月さんと……ですか?」

「ええ」


 それはね、と西園寺さんは続けた。


「お互いに大切な人ができたら、この婚約は解消しましょうって。伊月が幼いころから『指輪のお姫様』に恋心を抱いているのは知っていたから、私、今回久遠さんとの話を聞いてとても嬉しかったのよ」


 本当に、と西園寺さんは私の手を取った。彼女の手は、私よりも少しだけ体温が高い。柔らかな温もりに包まれる。


「そう……だったんですね……」

「それに……私も、好きな人がいるの」


 ぽっと西園寺さんは頬を赤らめる。急にしおらしなった西園寺さんに、私は呆気に取られた。

 もじもじと恥ずかしそうにする西園寺さんからは、その好きな人を聞いて欲しいというオーラがビシバシと伝わってくる。


「え……えっと。西園寺さんの、好きな人って……」


 その雰囲気に押され、質問してみれば、西園寺さんは一度目を丸くしてから、すぐに左下を向くように視線を逸らした。


「久遠さんと同じ企画部の、佐々木さんなんだけど……」


 唇を尖らせるようにぽつりと紡がれる名前。

 佐々木……?

 私と同じ、企画部の……?


「えっ!? 佐々木くん!?」

「ちょっとやだ、声が大きい!」

「あっ、ごめんなさい! 驚いちゃって」


 接点あるんですか? と、声のボリュームを押さえ聞いてみる。西園寺さんは、「前に一度だけ……」と、握っていた私の手を離して、自分のお腹の前で指先をつんつんとしだした。

 先程まで感じていた凛とした印象から、がらりと変わる。今は何というか……大変可愛らしい。


「営業が上手くいかなくて、落ち込んでいた日があって。休憩室で項垂れていたら、偶然飲み物を買いに佐々木さんも来て……。そのときが初対面で一度も話をしたことなんてなかったのに、コーヒーを買ってくれたの。『何があったか分からないですけど、次は良いこと絶対あります』って笑ってくれた顔が、忘れられなくて」


 もじもじとしていた手を、西園寺さんは大事なものを抱きかかえるようにキュッと胸の前で握った。

 思い出を語る西園寺さんの表情はとても柔らかく、綺麗だった。


「そういうわけで、久遠さん」

「は、はい」

「私と伊月は、お互いに恋愛感情はない。いつ婚約を解消したって良いって思ってる。だから、私に遠慮はしないで」


 もうすぐ昼休みも終わるわね、と西園寺さんは腕時計に一度視線を落としてから、席を立った。私も同じように立ち上がって、椅子を元の場所に戻す。


「伊月にもきつく言っておくわ。本当に大切な人なら、ちゃんと説明しなさいって」


 お疲れさま、と彼女はまた長い髪を美しく靡かせて会議室を後にした。

 西園寺さんがさっきしていた仕草と同じように、私も胸の前で両手を重ねて握った。

 とくとくと、心臓が鳴っている。今は、あまり苦しくない。



――伊月が幼いころから『指輪のお姫様』に恋心を抱いているのは知っていたから、私、今回久遠さんとの話を聞いてとても嬉しかったのよ。


 西園寺さんのその言葉が本当なら……。

 王司さんの顔が瞼の裏に浮かぶ。

 残業で遅くなったとき、私の隣の椅子に座って他愛ない話で笑ってくれた横顔。

 資料室で後ろから抱きしめられた体温や、耳元で響く聞き心地の良い低い声が、私の胸をときめかせる。

 雷や停電に怯える私に気付いて駆け付けてくれる優しさや、何よりも私の大切な指輪を20年も持っていてくれていたという優しさを、私は信じたい。


――私は、王司さんが好き。


 そう、ハッキリと気付いた瞬間だった。


 そう、自分の心に気付いたのに、あれから王司さんと社内で顔を合わせることは一度もないまま週末を迎えてしまった。

 会って話がしたい。王司さんの話をちゃんと聞かずに、突き放すようなことをしてしまったことを謝りたい。

 営業部のフロアにまで行ってみたけれど、営業ということもあって外に出ていると他の社員から教えてもらうことばかりだった。


(連絡先も知らないし……。もうこのまま、会えないのかな)


 はぁ、と溜息が零れる。定時から一時間ほど遅れての退社。ICカードをゲートに通し、建物を出たとき、ふと思い出した。

 王司さんに初めて出会ったバーのことを。


(そこに行ったら、また会えるかもしれない)


 バーの名前は……何だっただろうか。確か、月に関係している名前で……。

 ううん、と唸る。ナナコと合コンをした居酒屋からはあまり遠くなかったことだけはしっかりと覚えていた。

 家とは反対だけれど、行ってみよう。探したら、見つかるかもしれない。

 電車に揺られること十五分ほど。降り立てば、飲み屋街独特の空気が流れている。週末ということもあり、人気は多い。

 確か、こっちの通りで……。

 一軒一軒、お店の名前を確認しながら飲食店が立ち並ぶ道を歩いていく。それを数十メートル繰り返したあと。


「……ここ、かも」


 静けさを感じさせる黒いドア。

 『Bar:Fly to the moon』という文字が、月色に輝いている。

 王司さんがいるという確証は、どこにもない。けれど、ここでなら出会える気がする。そんな予感がする。

 私はそっと、そのドアノブに手を掛けた。

 店内に、静かに流れるジャズミュージック。

 外の喧騒から切り離された、綺麗な空間。ダウンライトの照明に照らされたカウンター。

 カウンターの奥でグラスを拭くマスターと目が合った。マスターは私のことを覚えているのか、「あ」というような表情をすると、すぐに微笑んで「どうぞ」と席へと促してくれる。

 マスターが指してくれた席。その隣には、男性がひとり、座っていた。

 その背中は……。


「王司さん」


 そっと、その名前を口にしてみる。

 スーツのジャケットを脱いだ、白いシャツに包まれた肩が、ぴくりと跳ねたのが分かった。

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