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第17話 ちゃんと覚えていて

 私が名前を呼びかけると、王司さんは微かに肩を震わせてからこちらを振り向いた。

 王司さんは静かにその瞳を丸くする。それから、気まずそうにそっと視線を逸らした。


「彼と同じものをひとつ」


 それでも私は構わず、彼の隣の席に腰を下ろしながらマスターさんにカクテルを注文する。

 王司さんの前にはグリーンが鮮やかなライムが添えられたジントニックが置いてあった。

 マスターさんは「かしこまりました」と穏やかな笑みとともに頷くと、グラスに氷を入れた。涼やかな音が店内に響く。

 王司さんはお酒に口をつけることもなく、グラスを揺すった。

気まずい空気が漂う。

私はひとつ息を吐いた。ちゃんと、話をしないと。


「王司さん」


 もう一度、私は彼の名前を呼んだ。

 姿勢を変えて、王司さんのほうを向く。眉を下げた王司さんと視線が交わった。


「私……ずっと、王子様に憧れていたんです」


 王司さんに話したいことはたくさんあって、どこから話をすればいいのか悩んでいた。

 ひとつひとつ、絡まった糸を解いていくように、まずはこの話からしようって言葉を紡いでいく。


「御伽噺の世界が大好きで、お姫様にもなりたかった。幼稚園生のときはプリンセスに憧れているお友達もたくさんいたけれど、年齢を重ねるうちに周りからそういう子が減っていって、小学生に上がるころには両親からも『そろそろ違うものに憧れたら?』なんて言われるようになりました」


 私は、バッグに入れていたお祖父ちゃんが作ってくれた指輪を取り出す。小さなケースに入った小さな指輪。


「そんなときに、お祖父ちゃんだけが私の憧れを否定しないでいてくれた。お姫様には指輪が必要だろうって、この指輪を作ってくれたんです」


 本当に嬉しかった。今でもこの指輪を初めて指につけたあの日のときめきを覚えている。


「本当に、素敵な指輪だと思う。愛が伝わってくるよ」


 ずっと黙って私の話を聞いてくれていた王司さんは、ようやくその表情を和らげた。

 だから私も、自分の気持ちが届けば良いと願いながら、王司さんに微笑みかけた。


「だから、私の大切な指輪を、一生懸命一緒に探してくれた男の子が、私には王子様に見えたんです」


 あの日、初めて出会ったあの日から、私の心の中にはいつもあの男の子がいた。1年経っても、10年経っても、そして20年が経っても忘れることなんてなかった。

 ずっとずっと、また出会いたいって思っていた。


「西園寺さんとお話しました。王司さんの話を、ちゃんと聞かないまま避けてしまって、本当にごめんなさい」


 王司さんが私を見る瞳も、掛けてくれる言葉も、いつだってずっと真っ直ぐだったのに。


「いや……あれは、最初に茜のことを話していなかった俺が悪いよ。混乱させてしまって、本当に申し訳ない」


 そう言って王司さんは頭を下げる。


「舞い上がってたんだ。初恋の人に、また出会えるなんて思ってなかったら。だから、茜とのことを久遠さんに話さなきゃいけないってことがすっかり頭から抜けてた」


 はぁ、と王司さんは溜息とともに額に手を当てる。

 でもそれから、王司さんは深く息を吸い込むと姿勢を正して座った。私も思わず背筋が伸びる。


「あの日、君に一目惚れしたんだ。植物園で俺が声を掛ける前に、実は一度すれ違ってたんだよ。知ってた?」

「え……!」

「お父さんとお母さんと手を繋いで、ニコニコと笑いながら歩いている君がすごく可愛くて。またすれ違わないかなって思ってたら、君が指輪を失くして泣いてるところを見つけたんだ。それで、気付いたら声をかけてた」

「そう、だったんですね」


 全然知らなかった。

 なんだかそれが照れくさくて自分の髪の先を指で触る。

 20年前に、王司さんが私に対してそんな風な想いを抱いてくれていたなんて知らなかった。


「俺には、久遠さんがお姫様のように見えてた。20年間、俺の中で君はずっと幼いままだったけれど、再会できて……。再会した君は変わらず可愛くて。関われば関わるほど、久遠さんの内面も知っていって、やっぱり好きだなって思ってた」


 そう言って、王司さんは自分の口元に手を当て「あー……」と呟く。


「ごめん、なんか……改めて話すと、すげぇ照れる……」


 いつも言葉遣いが綺麗な彼が言葉を崩した。

 その顔は耳も首も赤くて、こちらまで逆上せてしまいそうだ。


「茜には、もう話をして理解してもらってる。君が心配するような関係はもうどこにもない。だから、俺の言葉をもう一度信じて欲しい」


 久遠さん、と王司さんが私の名前を続けて呼ぶ。

 そっと私の手に添えられた手は、とても温かい。彼の気持ちが、その熱から伝わってくるような感覚がする。


「俺の運命の人は、久遠さんだけだ。絶対幸せにする。だから、俺と付き合って欲しい」


 王司さんの真剣な瞳に私だけが映っている。

 カウンターに置かれたお祖父ちゃんの指輪が、私の背中を押すように煌めいていた。


「……私で、よければ」


 なんて可愛くない返事しかできないのだろう。

 それでも、王司さんを見れば見るほど高鳴る心臓のせいで、そう返すだけで精一杯だった。

 ちらり、と王司さんの様子を窺う。

 彼は私の言葉を受け止めると、ふわりとその表情を柔らかくして、それから「よかった」と安堵の溜息を吐いた。

 その可愛らしい笑顔を見ていたら、私の表情の強張りも溶けていくような気がした。

 もっと伝えたい想いがあったはずなのに。

 私からも、しっかりと王司さんに好きだと伝えるつもりだったのに、結局、この会話も王司さんにリードされてしまったように思う。

 マスターさんがタイミングを見計らったように、私の前にジントニックを差し出す。それから、私と王司さんを交互に見て、「よかったですね」と微笑んだ。

 二人の世界に入り込んでしまっていたけれど、ここはお店の中だったと慌てて周囲を見回した。

 私たち以外にお客さんはまだ入っておらず、ホッと胸を撫で下ろす。

 王司さんも同じように考えていたようで、私たちは顔を見合わせて笑い合った。



 王司さんと一緒にお店を出る。

 涼しい夜風が、お酒で火照った頬を撫でていった。


「ふわふわしてる。大丈夫?」


 王司さんは私の足取りを見て心配そうに言った。


「あはは、大丈夫です」


 王司さんと話す緊張やら、王司さんとの間にあった誤解が解けて胸に広がっていたモヤモヤが消え去ったことから、少しだけお酒に開放的になってしまった。

 飲み過ぎてしまった感は否めないけれど、歩けないほどじゃない。


「ほら、危ないよ」


 不意に王司さんに腕を引かれ、その胸に抱き寄せられる。

 私の横を、同じように酔っぱらったサラリーマンたちが通りすぎていった。

 間近にある王司さんのぬくもり。

 心臓が途端に鼓動を速める。

 ふわりと香った、王司さんの柔軟剤か香水の香りに眩暈がしそうになる。


「あ……ありがとうございます」


 酔いが覚める。いいや、それとはまた別の、お酒とは違う酔いが襲ってきそう。

 すみません、とその胸を押して、体を離そうとしたけれど上手くいかなかった。

 王司さんの腕に、力が込められたから。


「今日は、ちゃんと覚えていて」

「え……?」

「前みたいに『お酒のせいで忘れました』なんて、言わないでね」


 力強く抱きしめられて、少し苦しいくらいだ。

 そうだ。そういえば、私たちは一度――。

 何があったかは未だに思い出せないけれど、状況的に起こったであろうことを想像して自分の顔が赤くなるのが分かった。

 あの日、酔っぱらって記憶を失くした日の私は、一体王司さんにどんな言葉を伝えたのだろう。

 思い出せないし、分からない。

 分からないけれど……。


「大丈夫です。絶対、忘れたりしません」


 だって、やっと出会えた私の王子様だから……。

 それを言葉にすることはできなかった。その代わり、彼の背中に腕を回して、ギュッと抱きしめ返した。

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