朝、目が覚めたとき。
まだ寝起きで微睡む意識の中、王司さんの温もりを思い出していた。
――今日は、ちゃんと覚えていて。
王司さんの低い声が、頭の中でリフレインしている。
(本当に、付き合うことになったんだよね?)
記憶はちゃんと残っているけれど、お酒も入っていたせいかどこかふわふわとしていて夢心地だ。
王司さんと昨日バーで話したことや、帰り道で抱きしめられたことは夢だったのではないかと一瞬不安が過る。
そのとき、不意にスマートフォンが着信音を響かせた。
メッセージが届いた通知音ではなく、通話を知らせる音に飛び起きる。一体誰からだろう、とスマートフォンのディスプレイを見れば『王司さん』と表示されていた。
「うわっ、えっ、王司さん!?」
そういえば、昨日、別れ際に連絡先を交換したんだった。
彼のスマートフォンに映し出されていたQRコードを読み取った記憶が蘇ってくる。
「早く通話を取らないと」と思うけれど、アイコンをスワイプしようとする指が震える。
「あ……お、おはようございます」
何とか通話に出ることはできたが、今度は言葉が詰まった。恥ずかしい、と唇を噛む。
『おはよう。起こした? 早い時間にごめん』
明らかに挙動不審になっている私のことは気にしていないような優しい王司さんの声が、スピーカー越しに私の鼓膜を揺する。
「あ、いえ。起きていたので、大丈夫ですよ」
王司さんに言われて、部屋の壁に掛けられた時計を見る。
時刻はまだ7時を回ったばかりだ。
『そう? それなら良かった』と王司さんはホッと安堵したように声色をさらに和らげる。
私は別に王司さんには見えていないのに、ベッドの上で姿勢を正して座り、寝癖がついている前髪を手櫛で押さえつけた。
「今日、お休みですけど……。何か、ありましたか?」
今日は土曜日で仕事も休みだ。そんな休日の朝早くに通話をかけてきたということは、何かトラブルがあったのかもしれない。
私の神妙な口調に、王司さんは『えっ』と一瞬困惑したような声を上げた。それから、『あー……ええと、』と言葉をまごつかせた。
『ただ……声が聴きたいなって、思っただけ』
小さく呟かれた王司さんの言葉は、後半になればなるほどさらに消え入りそうなくらい小さくなっていく。
王司さんから紡がれた言葉の意味は、すぐに噛み砕くことができなくて、頭の中でぼんやりと繰り返した。
そうしているうちに、寝起きの頭も通常通りに動き出したこともあって、「声が聴きたい」という言葉の意味も、王司さんが消えそうな声で言った意味も理解ができて、途端に顔が熱くなる。
「あっ、あの、私も……声が聴きたいって思ってました」
なんて返せばいいのか分からず、ぐるぐる思考の中で出て来た言葉を口にする。
口にしてから、なんだかとんでもないことを言ってしまったと気付いた。
目が、回りそう。
『え、本当に?』
王司さんは抜けたような声で訊き返してくる。
「いや、あの、その……違くて……いや、違うってこともないんですけど、」
否定するということは、声を聴きたくないということになってしまう。
決してそういうわけではないし、どちらかというと王司さんの低い声が私は好きだ。
……って、そういうことではなくて。
「私も……また、王司さんとお話したい……って思っていて」
夢心地の中、昨日のことが現実ではないのではないかと不安も過ったけれど、王司さんの温もりを思い出すと胸がときめいた。
そのときめきは、夢なんかではなくて、本物だと思う。
『嬉しい。なんか、朝起きたとき、昨日のことは夢だったんじゃないかってちょっと心配になって』
こんなことって本当にあるのかな、と昨日のことを振り返りながら思っていたと王司さんは続ける。
「あ……同じ、です。私も、昨日のことは夢だったのかなって」
まさか同じことを思っていたなんて。
食い気味にそう返せば、王司さんはくすくすと笑い声を上げた。
『お互い初心すぎる』と可笑しそうに言う王司さんに、私もつられて笑ってしまう。
確かにもうお互いに二十代も半ばになるというのに、想いが通じ合ったことを夢だと疑うなんて、まるで学生時代の恋のようだ。
……と言っても、私は学生時代もずっと『指輪の王子様』に憧れていて、そういう恋愛もまともにしていないのだけれど。
『……それじゃあ、お互いに夢じゃないんだって、改めて確認してみる?』
そっとこちらの顔色を窺うような提案。
けれどその声色の中には、どこか余裕も感じられるようなイタズラな笑みが含まれているような気がした。
あの後、王司さんから「一緒に昼ご飯でも食べに行こう」と誘われた。
通話を切ってから、クローゼットの中をひっくり返す勢いで中の洋服を取り出す。
(デ……デートってこと、だよね!?)
合コンは何度か経験があるけれど、男性と二人で出掛けるデートというのはあまり経験がない。
一体どんな服装をするのが正解なのだろう。
職場で会うときは、パンツスタイルのカッチリとしたファッションだけれど、デートなのだからもっと違う雰囲気のものが良いだろうか。
しかしデートだからといって、可愛いワンピースやスカートを履くのはまだ心にセーブがかかる。
可愛いものが好きだって、王司さんにはまだ言えていないし……。
お姫様に憧れているとは打ち明けたから、その辺りも察してくれてはいるかもしれないけれど。
でも、もしそうじゃなかったとき……。
――え、少女趣味?
大学時代、自分に向けられた苦笑いを思い出す。
胸の奥が小さく痛んだ。
手に持っていた花柄のフレアスカートをクローゼットの奥に仕舞いこむ。
その代わりに、いつも真っ黒のジーンズとホワイトのフレアブラウスを取り出した。
(これが無難……よね?)
仕事の時のイメージと大きく変わらない。王司さんが知っている私だろう。
アクセサリーもシンプルなものを選んだ。
ナナコに話したら「ちゃんと自分を受け入れてもらえるようにしなさい」って怒られそうだ。姿見に映る自分を見て自嘲する。
服に悩んだり、メイクや身支度をしているとあっという間に家を出なければいけない時間になってしまった。
11時半までに待ち合わせをしている駅まで行かなければ。
自宅からは電車で30分ほどかかる。
今日もヒールの高いパンプスを選び、最後に服にヨレなどがないか目視で確認して家を出た。
待ち合わせ場所に着くと、休日の昼間ということもあってかそれなりに人が多かった。王司さんに「到着しました」とスマートフォンでメッセージを送りながら、その姿を探す。
無事見つけられるだろうかという不安は、すぐに後ろから「久遠さん」と名前を呼ばれたことで解消された。
振り向けば、「おはよう」と柔らかい笑みを浮かべる王司さんがいる。
シンプルな黒いTシャツにジーンズという服装は、仕事のときとは全く違うカジュアルさがある。
スタイルが良い王司さんには、そんなファッションもとてもよく似合っていた。
「変、かな?」
不意に王司さんがそう言って首を傾げた。
「え!?」
「いや……ジッと俺のこと見てるから」
「えっ、いやっ、ちが……!」
眉を下げる王司さんに慌てて両手を顔の前で振って否定する。
「違うんです、ただ……あの、」
「ただ?」
王司さんが人混みの喧騒から私の言葉を逃がさないようにするためか顔を近付けて来る。
好きだと気付いてから、この距離は心臓に大変悪い。
「ただ、私服の王司さんも格好いいなって思っただけで……」
自分でも分かるくらい声が小さくなった。
王司さんはその瞳をぱちぱちと瞬かせたと思ったら、はぁ~と深い溜息を吐いた。
「あの、大丈夫……ですか?」
「ごめん、大丈夫。まさか、久遠さんからそう言ってもらえると思ってなかっただけだから」
王司さんは口元に拳を当てて軽く顔を逸らす。その顔がとても赤いことに気づく。
「ええと……じゃあ、どこかご飯食べに行こうか」
顔を逸らしたまま、王司さんが言った。
「そ、そうですね」
頷いた自分の顔も熱いことに気付いて、そっと自分の手で火照る頬を煽いだ。