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第19話 夢じゃない

「杏南って呼んでもいい?」


 休日、昼時。

 ランチタイムで賑わうレストランの喧騒の中、向かいの席に座る王司さんの声がやけにはっきりと私の耳に届いた。

 あまりに脈絡なく突然言われるものだから、パスタを掬っていたフォークを落としそうになり慌ててキャッチする。


「あ……杏南、ですか?」

「うん。恋人になったのに、久遠さんって呼ぶのも違うかなって思って」

「そそそ、そうですよね。もちろん、大丈夫、ですっ」


 王司さんが言った『恋人』という言葉が頭の中をぐるぐると回る。

 そうか。恋人になるということは、こういう些細なことにも変化が生まれるということなのか。


「ああ、もちろん会社ではこれまで通り『久遠さん』って呼ぶから安心して」

「は、はい」


 熱くなった顔を冷ますために、氷がたっぷり入ったアイスティーをストローで一気に吸い込んだ。

 気持ちを落ち着かせようと、王司さんから目を逸らし顔を横に向ける。

 窓際の席。正午近い空は、夏を感じさせるように眩しい日差しで照らされている。

 そんな空の下を行き交う人たちは、私がこんなにも王司さんの言動一つでドキマギしていることにも気付いていないのだろうと考えていたら、少しずつ気持ちも落ち着いてきた。


「あと」と、王司さんが口を開く。

「せっかく同い年なんだし。言葉遣いだって、二人のときはタメ口で良いと思う」


 私が頼んだものと同じボロネーゼを、王司さんはフォークにくるくると器用に巻きながら言った。


「は、はい。じゃなくて……うん、そうだね」


 自分でも分かるくらい、タメ口を試みる私の言葉はなんともぎこちない。

 王司さんはそんな私を見て可笑しそうに肩を揺らした。


「かわいい」


 ぽそっと呟かれるように王司さんが言う。


(か、かわいいって言った!?)


 ニコニコとした笑みで王司さんが私を見ている。


 その視線から逃れたくて俯き、真っ白なお皿に乗ったボロネーゼに向き合う。フォークにぐるぐると麺を巻き付けていくけれど、頭の中はそれどころではない。

 昨日から始まった交際も、杏南と王司さんに呼ばれることもタメ口も、急なことで全然頭が追いついていないのに、サラッと「かわいい」なんて、まるで独り言でも言うように呟かないで欲しい。

 あまりにも自然に言われたせいで、それが自分に向けて言われたのかどうかさえ怪しい。

 自分に言われたかと思って思わず目を逸らしてしまったけれど、お皿が可愛いとかストローの柄が可愛いとか、もしかしたらそれに対して言ったのかもしれない。

 そうだ、きっとそうだ。

 だって、かわいいなんて思われることを私は何一つしていない。

 なんて、頭の中でひとり自問自答を繰り返していれば、不意に隣の席に置いていたバッグの中でスマートフォンが震えた。

 「すみません」と王司さんに断りを入れて、バッグの中からスマートフォンを取り出して内容をチェックする。

 ナナコから着信があったようだけれど、そのすぐあとに『また夜に電話する』とメッセージが来ていた。

 それに「分かった」と返事を送り、スマートフォンをまたバッグの中に直そうとしたときだ。


「それ、可愛いね」


 王司さんが私のスマートフォンを指差す。


「え?」


 何のことを言っているのだろう、と首を傾げる。私のスマートフォンはとてもシンプルで、柄のないクリアカラーのカバーをしている。

 可愛いものなんて、何も。

 そう思って、スマートフォンをひっくり返した私は、さーっと顔面から血の気が引いていくのを感じた。

 大好きなうさぎのキャラクター『ふわぴょん(キラキラのおめかしバージョン)』が私を見て微笑んでいる。


(そうだ、昨日……!)


 数日前に発売され、買ったまま家に置いていたシール付きウエハースを昨日開封して、お目当てだったシールが無くならないようにとスマートフォンのカバーに挟んだのを忘れていた。


「あ、あの、これは、」

「何ていうキャラクター? 好きなの?」

「ふわぴょん……じゃなくて、いえっ、私が好きとかじゃなくて……あ! 姪っ子! 姪っ子が好きなんです!」


 私には『きょうだい』もいなければ『姪っ子』だって存在しない。

 こういうものが好きだって知られたくなくて、誤魔化すために嘘をついてしまった。


「そうなんだ」


 王司さんは、それが嘘だと気付くことなく頷いてくれる。


(こういうのが好きだって知られて、イメージと違うって思われたくない)


 職場での私は、こういうものとは真逆のイメージになるようにしてきたつもりだ。

 今日の服装だって、今まで王司さんに会って来た私のイメージから大きくかけ離れないようにしてきた。

 自分の手でふわぴょんのシールを隠すようにスマートフォンを握る。その手には、思わず力が入ってしまった。



 空も薄暗くなり始めた頃。

 ランチを食べたお店の近くで、雑貨屋さんや本屋さんを一緒に見て回ったあと、軽く夕食を一緒に澄まして、王司さんは私をアパートの前まで送ってくれた。


「今日は急だったのに、会ってくれてありがとう」

「いえ、こちらこそ。楽しかったです」

「ふっ、また敬語に戻ってる」

「あっ、ごめんなさい」


 王司さんは、ふふっと優しく笑うと「大丈夫」とゆるく首を横に振った。


「少しずつでいいよ。少しずつ、距離が近付けたら嬉しいから」

「はい」と返事しそうになるのをなんとか飲み込んで堪えて、「うん」と頷いた。

「じゃあ、また月曜日……かな? 職場で」

「うん、また月曜日に」


 もう一度今日のお礼を伝えて、右手を上げて小さく振る。

 王司さんもそれに「うん」と頷くと、また駅のほうへ戻るために私に背中を向けた。

 ふわぴょんのシールを見られてしまったことは誤算だったけれど、とても楽しい一日だった。

 今日一日だけでも、杏南と名前を呼ばれるたびに、指輪の王子様と再会して、交際が始まったなんて不思議だって思って――。

 背中を見送っていた王司さんが不意に立ち止まる。少しだけ間が合って、それからこちらを振り返ると、また私のほうへと小走りで戻って来た。

 一体どうしたのだろう?


「杏南」

「は、はいっ!?」


 目の前まで戻って来た王司さんに名前を呼ばれ、返事をする私の声は上擦りひっくり返る。

 王司さんは私の左手を捕まえるようにそっと握った。

 私より少しだけ高い体温に、鼓動が早まっていく。

 ふわりと、王司さんの香りが舞った。

 鼻先を王司さんの少しだけウェーブの掛かった黒髪がくすぐっていく。

 それと同時に、頬に柔らかな温もりが優しく触れた。


「おやすみって言うの、忘れてた」


 いじわるに目を細める王司さんを、私の目が捉える。


「じゃあね、杏南。また電話する」


 ひらり、と彼は手を振り、また元来た道を戻っていく。


「~~~~っ!?」


 私はただその場に立ち尽くして、自分の頬を掌で押さえることしかできなかった。

 王司さんの唇が触れた場所から、全身に一気に熱が広がっていく。

 ただ、頬にキスをされた。たったそれだけなのに、その熱はあまりにも強烈で、これが夢ではないと分からせてくるようだった。

 忙しなく動く心臓。

 クラクラと眩暈がしそうなほど、心はふわふわとしていて、でも痛いくらいときめいている。


「大丈夫かな、私……」


 思わずその場でしゃがみ込んでしまった。

 ずっと探していた憧れの王子様。

 あんなにも再会できることを望んでいたのに、大人になった彼の破壊力は、私が想像していた以上のものかもしれないと、今更になって怖気づいてしまう。


「月曜日、王司さんの目、見られないかも……」


 赤くなった顔を隠すように、私は未だアパートの前で自分の顔を両手で覆った。


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