僕は「疲れたから」と言い訳をして馬車を降りず、そのままパートリッジの本邸へ走らせてもらった。いつもなら少しは惹かれるはずの「特別なご馳走」って言葉も、今の僕の心をちっとも動かさなかったんだ。
僕と、サラと、ジェフリーと……ルークと。この四人で食卓を囲むくらいなら、自邸に戻って具の少ないスープでも飲んでいた方がいい。
だって僕の女装を見破られたら困るし、姉上とルークの関係が分からない以上は、彼とどう接するべきなのかも分からないからね。
ほかの理由は、ない。
ぜーんぜん、ないんだよ!
そう自分に言い聞かせながら僕は、手を取り合って玄関の向こうへ消えるサラとルークの姿を思い出すたびに頭を振って幻を消そうと努力した。馬車の中が一人で良かったよ。これ、
バサバサになった
道に長い影を落とす木々を見るともなしに見ていた僕は、景色にふと違和感を覚えて窓の方へ身を乗り出す。
荒れ放題になってる元庭園。
今は誰も近寄らないはずのその場所に、なぜか複数の人影が見えたんだ。
見間違いかと思って窓に顔を近づけたけど、確かに誰かいる。
人数は、いち、にい……全部で八。
「まさか、泥棒?」
もちろんそんなはずはなかった。あれは村の人々だ。加えて老執事と男性使用人と、下にあるこんもりとした影は……しゃがんだメイドだね。うちの三人に挨拶をした村人たちは、道端に停めた二台の作業用馬車に乗り込もうとして、僕が乗るモート家の馬車に気付いたらしい。誰かが何かを言って、みんながこっちに顔を向けて、立ち上がったメイドが大きく手を振る。
僕は慌てて窓から離れた。“エレノア”の姿で村人たちに見つかるとちょっと面倒だもんね。メイドが余計なことを言ったらどうしようって気はするけど、そこは一緒にいた執事がなんとかしてくれると信じよう。
馬車は玄関に到着したけど、うちの三人の使用人たちはさっき庭園にいたわけだから、当然ながら出迎えは誰もいない。いつも物静かな御者さんが僕を馬車から降ろしてくれたあとに、
「今日はどなたも……あのメイドさんも、いらっしゃらないんですね」
って珍しく辺りをキョロキョロ見回す。
「まだ家の用事をしているのだと思いますわ。今日の帰宅は少し早かったですもの、こんな時間にわたくしが戻るとは予想していなくて、出迎えの準備ができなかったのでしょう」
僕が答えると御者さんはちょっと肩を落としたように見える。
「そうですか。……では、次は黄の曜日に伺います」
とだけ言って御者さんは馬車へ乗り込み、来た道を戻って行った。
それにしても三人とも、あの庭園で何をしてたんだろう。村人まで一緒にいたのも不思議だな。
首をかしげながら僕は自分で扉を開いて中に入る。音のしない静かな空間が、少しばかりのかび臭さや古い石の匂いと共に出迎えてくれた。
窓から入るオレンジがかった光の筋が舞い上がったホコリをキラキラさせてるけど、窓枠にホコリは乗ってないし、はめ込まれてるガラスにも曇り一つない。それもこれも老執事が毎日、綺麗に磨いてくれてるからだ。
「玄関はお屋敷の顔ですから、いつ、どなたがお越しになっても、美しい状態でお迎えできるようにいたします」
彼はいつもそんなふうに言ってる。今の我が家を訪ねてくる人なんて借金の返済を迫るジェフリーくらいしかいないのに、律儀だよね。
ああ、僕はあとどれくらいここに住めるんだろう。次に使う人もこの本邸を大事にしてくれたらいいなあ。
僕がぼんやりしていたら、背後で扉の開く音がした。
「おかえりなさい、坊ちゃま」
高い背を屈めているのは男性使用人だ。
「ただいま。さっき、庭園にみんなでいたのを見たよ。村人たちも呼んで何をしてたの?」
「庭の手入れです」
「手入れ? なんでまた」
僕は庭に関してなんの指示も出してないから、差配してるのは父上だろうけど……あの父上が「荒れた庭園を気にして何かを植えようと考えた」っていうのはあんまり想像できない。庭園の花を愛でていたのは母上で、父上はどの時期に何が咲くのかすら知らなかったもんね。
そうだなあ、父上が考えることといえば。
「荒れた庭園を整備しておけば、屋敷の売り値も上がるんじゃないかと思ってる、とか」
うん。しっくりくる。
うなずく僕の横で、使用人は否定も肯定もせず静かに立っていた。
寡黙な彼はあんまり話をしてくれない。もし最初に戻ってきたのがメイドだったら、僕の質問ひとつに対して三個くらいは余計なことを付け加えただろうね。執事ならきっちりあれこれ説明してくれたはず。だけどこの使用人は寡黙だから、彼と対するときは僕の方があれこれ考えを巡らせる必要があるんだ。昔は彼の考えが分からなくて困ったけど、今はもう慣れたから平気。
とにかく、皆が集まっていた理由がなんとなく分かった。僕は使用人と別れて改めて部屋へ向かおうとして、ふと思い出す。
「悪いんだけど、明日の朝になったら王都へ向かってくれるかな。姉上に手紙を届けてもらいたいんだよ」
サラの婚約者になったルークとは、またモート家で会うかもしれない。姉上とルークがどんな交友関係を築いているのか教えてもらわないと、僕もどんな態度をとったらいいか分からなくて困るんだ。そのためにも姉上に連絡をしようと馬車の中で考えていたんだ。
町から王都までなら国営郵便も使えるけど、あれは定期便のような形だから希望通りの日数で返信が届くかどうか分からない。急ぎの連絡をしたいときはうちの使用人に王都まで行ってもらうほうが確実なんだ。旅費がかかるのが痛いけどね。
急な申し出だったけど、使用人はうなずく。
「分かりました。今から行きます」
「ん? 今から? 姉上は本邸に戻って来てるの?」
壊れかけた僕の部屋の扉を開いたら、姉上が長椅子に座ってるのかな。何か月か前みたいにさ。
そう思いながら二階を見上げると、使用人からはきっぱりとした答えが戻ってきた。
「いいえ」
「じゃあ、どういうこと? 僕が行ってほしいのは姉上のところで、姉上は王都にいるんだよね?」
「はい」
「まさかとは思うけど、今から王都へ向かうつもり?」
今でさえ陽はだいぶ傾いてる。もう少ししたら空には星の姿が見え始めるだろうね。
使用人の顔にある大きな傷がちょっと引きつった。これは彼が笑った証拠だ。
「馬なら、馬車よりも早く着けます」
「でも、夜になるよ? 危ないよ!」
「平気です。料理当番を代わってもらってきます。坊ちゃまは、お嬢様への手紙を、書いておいてください」
そう言い置いて使用人は玄関を出て行った。
僕はそのまましばらく悩んでいたけど、その場で靴を脱いで、スカートのすそを両手で持って、階段を駆け上る。
手紙を書かなきゃ。
彼が用事を済ませて戻ってくる前に、大急ぎでね!