雪こそまだ降っていないものの、季節はもう冬だと言っていい。朝靄が漂う中、ガイは全身を縮めながら目的の建物に急ぐ。
見えてきたのは温室だ。南方の植物を育てるため、床下に温泉水を流し込み、冬でも内部は心地よい暖かさを保っている。建物は堅牢なレンガ造りだが、広い窓や天井には幾枚もの大きなガラスがはめ込まれ、昼ともなれば陽光が四方から降り注ぐ。まるで一つの季節を閉じ込めたようなその存在は、“パートリッジ”という伯爵家が持つ栄華を雄弁に語るかのようだった。
ガイの父はこの屋敷の庭師だったので、幼い頃から父の手伝いをしてきたガイも、そのままパートリッジ家の本邸で働くようになった。十七歳となった今も「まだまだヒヨッコだな」と言われる身ではあったが、任される仕事は少しずつ増えている。先日からはついに温室の世話もさせてもらえるようになった。特別な建物の中にある特別な植物の世話ができるのは、ガイにとっては誇らしいことだった。
「だけど……うう、寒い、寒い」
温室は広い庭園の端にある。襟巻の奥へ顔を埋め、何度目かの「寒い」を繰り返しながら入り口にたどり着き、ガイは足を止めた。
「……ない」
白い扉を守っている頑丈な錠前が見当たらない。肝の冷える思いであわてて辺りを見回すと、近くの植え込みの上に錠前が置かれていた。
こんな目立つ場所にわざわざ残してあるのだから、盗人の仕業ではない。先に来た誰かの仕業だ。そしてその人物に心当たりがあり、ガイは肩の力を抜いた。
力を入れて扉を押し開けると、温かな空気がふわりと頬を撫でる。セイタカヤシの合間から白い蒸気が立ち昇るその奥、来客用に設けられた応接室の椅子に、片膝を抱えて座る人影があった。
「やっぱり」
ガイの頬に笑みが浮かぶ。歩を進め、ガラス扉を押し開けた。
「おはようございます、若様!」
臙脂の衣をまとった少年がわずかに顔を上げる。金色の前髪の隙間から濃紺の瞳が覗いた。パートリッジ伯爵家の嫡男、ウォルターだ。
十五歳になった彼は先月から王都に赴き、昨夜ようやく戻ってきたのだと、ガイは顔なじみのメイドに聞いていた。
「いつからここにいらしたんです?」
「夜明け前から」
「そんなに早くから? では、あまり眠っておられないでしょう。お部屋に戻った方が良いのではありませんか?」
「いい。どうせ寝られなかったんだ」
いつもながらウォルターの言い方はぶっきらぼうだ。加えて不愛想でもあることから、召使いたちのあいだでは「怖い」ともっぱらの評判ではある。
だけどウォルターは花好きだ。
花が好きな人物に悪人はいないとガイ思っていたし、実際にウォルターは気遣いができて優しい。
問題は、人と打ち解けるのに時間がかかる上に内向きだという性格だ。
だからこそガイは、ずっと案じていた。
「ご婚約者様が決まらなかったのですか?」
ウォルターが先月から王都へ行っていたのは、婚約者候補に会うためだとガイは聞いていた。
もしかすると顔合わせがうまくいかなかったのだろうか。だからウォルターは眠ることができずに、こうして温室で涙を流していたのか。
ざわつく胸を押さえながらガイが膝をつくと、ウォルターは腕で顔を覆った。彼のその仕草は、残念な答えを想像させるのに十分だった。
ガイとウォルターの身分は隔たっている。だけど庭園に現れるウォルターにあれこれと話をするうち、ガイはウォルターに親しみを覚え、今では弟のように思っていた。
彼の良さが伝わらなかったことに憤りを覚えながら、「次がありますよ」と声を掛けようとしたとき、囁くような返事が戻ってきた。
「決まった」
「……本当に?」
ウォルターの首が動く。
「おめでとうございます!」
弾むガイの声が温室に響いた。
「どんな方なんですか?」
問いかけに、ウォルターはさらに顔を沈めた。
「現国王陛下の、五番目の御息女」
「え」
「つまり、王女様」
「王女様!?」
貴族のパートリッジ家に仕えているとはいえ、ガイにとって王家の人物というのは雲の上の人物だ。
呆然とするガイに向け、ウォルターは話を続ける。
「王女様は十歳になられたばかりで、お名前をケイトリン様という」
普段ならここで会話は途切れる。以降はまたガイが問いかけて、ウォルターが短く応じる、というのが常だった。
だが今日のウォルターは違っていた。
「髪は
ウォルターは顔を隠したままなので、髪の隙間から耳だけが見えている。その耳がどんどん赤く色づいていく。
「そして、すべてが合わさったあの方ご自身は、どんな花にも例えられないほど、愛らしかった……」
ガイがこんな風に気持ちをはっきり現すのは初めてだった。ガイは自分の目と耳を疑う。これは現実のことだろうか?
「結婚は八年後、あの方が十八歳になられてからだと決まった」
「八年後だとウォルター様は二十三歳ですね。待ち遠しくありませんか?」
「ない」
言葉には揺るぎがなかった。
「時間はいくらあっても足らない。花を作るから」
「花ですか?」
「……あの方は寒い日にお生まれになった。ここへお越しになるのも、きっと寒い日になる」
そう言ってウォルターは腕を解き、顔を上げた。
「僕は花を作りたい。寒い日に咲く、今までにない花を。そうしてあの方に贈りたいんだ。――ガイも手伝ってくれるだろう?」
言葉こそ問いかけだったが、濃紺の瞳には信頼が宿っていた。
それで分かった。ウォルターが朝日が昇る前に温室へ来たのは、この話をガイにするためだった。大切な花を作るためのパートナーとして、ほかの誰でもないガイを選んでくれたのだ。
気づいた瞬間に胸が熱くなる。
間髪入れずにガイは答えた。
「作りましょう」
このときから、二人の八年が始まった。