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幕間2

あなたに贈る暁の花 1

 雪こそまだ降っていないものの、季節はもう冬だと言っていい。朝靄が漂う中、ガイは全身を縮めながら目的の建物に急ぐ。


 見えてきたのは温室だ。南方の植物を育てるため、床下に温泉水を流し込み、冬でも内部は心地よい暖かさを保っている。建物は堅牢なレンガ造りだが、広い窓や天井には幾枚もの大きなガラスがはめ込まれ、昼ともなれば陽光が四方から降り注ぐ。まるで一つの季節を閉じ込めたようなその存在は、“パートリッジ”という伯爵家が持つ栄華を雄弁に語るかのようだった。


 ガイの父はこの屋敷の庭師だったので、幼い頃から父の手伝いをしてきたガイも、そのままパートリッジ家の本邸で働くようになった。十七歳となった今も「まだまだヒヨッコだな」と言われる身ではあったが、任される仕事は少しずつ増えている。先日からはついに温室の世話もさせてもらえるようになった。特別な建物の中にある特別な植物の世話ができるのは、ガイにとっては誇らしいことだった。


「だけど……うう、寒い、寒い」


 温室は広い庭園の端にある。襟巻の奥へ顔を埋め、何度目かの「寒い」を繰り返しながら入り口にたどり着き、ガイは足を止めた。


「……ない」


 白い扉を守っている頑丈な錠前が見当たらない。肝の冷える思いであわてて辺りを見回すと、近くの植え込みの上に錠前が置かれていた。

 こんな目立つ場所にわざわざ残してあるのだから、盗人の仕業ではない。先に来た誰かの仕業だ。そしてその人物に心当たりがあり、ガイは肩の力を抜いた。


 力を入れて扉を押し開けると、温かな空気がふわりと頬を撫でる。セイタカヤシの合間から白い蒸気が立ち昇るその奥、来客用に設けられた応接室の椅子に、片膝を抱えて座る人影があった。


「やっぱり」


 ガイの頬に笑みが浮かぶ。歩を進め、ガラス扉を押し開けた。


「おはようございます、若様!」


 臙脂の衣をまとった少年がわずかに顔を上げる。金色の前髪の隙間から濃紺の瞳が覗いた。パートリッジ伯爵家の嫡男、ウォルターだ。

 十五歳になった彼は先月から王都に赴き、昨夜ようやく戻ってきたのだと、ガイは顔なじみのメイドに聞いていた。


「いつからここにいらしたんです?」

「夜明け前から」

「そんなに早くから? では、あまり眠っておられないでしょう。お部屋に戻った方が良いのではありませんか?」

「いい。どうせ寝られなかったんだ」


 いつもながらウォルターの言い方はぶっきらぼうだ。加えて不愛想でもあることから、召使いたちのあいだでは「怖い」ともっぱらの評判ではある。

 だけどウォルターは花好きだ。

 花が好きな人物に悪人はいないとガイ思っていたし、実際にウォルターは気遣いができて優しい。


 問題は、人と打ち解けるのに時間がかかる上に内向きだという性格だ。

 だからこそガイは、ずっと案じていた。


「ご婚約者様が決まらなかったのですか?」


 ウォルターが先月から王都へ行っていたのは、婚約者候補に会うためだとガイは聞いていた。

 もしかすると顔合わせがうまくいかなかったのだろうか。だからウォルターは眠ることができずに、こうして温室で涙を流していたのか。

 ざわつく胸を押さえながらガイが膝をつくと、ウォルターは腕で顔を覆った。彼のその仕草は、残念な答えを想像させるのに十分だった。


 ガイとウォルターの身分は隔たっている。だけど庭園に現れるウォルターにあれこれと話をするうち、ガイはウォルターに親しみを覚え、今では弟のように思っていた。

 彼の良さが伝わらなかったことに憤りを覚えながら、「次がありますよ」と声を掛けようとしたとき、囁くような返事が戻ってきた。


「決まった」

「……本当に?」


 ウォルターの首が動く。


「おめでとうございます!」


 弾むガイの声が温室に響いた。


「どんな方なんですか?」


 問いかけに、ウォルターはさらに顔を沈めた。


「現国王陛下の、五番目の御息女」

「え」

「つまり、王女様」

「王女様!?」


 貴族のパートリッジ家に仕えているとはいえ、ガイにとって王家の人物というのは雲の上の人物だ。

 呆然とするガイに向け、ウォルターは話を続ける。


「王女様は十歳になられたばかりで、お名前をケイトリン様という」


 普段ならここで会話は途切れる。以降はまたガイが問いかけて、ウォルターが短く応じる、というのが常だった。

 だが今日のウォルターは違っていた。


「髪は蜜胡桃ミツクルミの実のように艶やかで、大きな瞳は秋の丘漆オカウルシの葉のように鮮やかな赤茶色だった。唇は桃釣草モモツリクサを思わせる柔らかさで、肌は初雪蘭ハツユキランの花のように白く滑らかで」


 ウォルターは顔を隠したままなので、髪の隙間から耳だけが見えている。その耳がどんどん赤く色づいていく。


「そして、すべてが合わさったあの方ご自身は、どんな花にも例えられないほど、愛らしかった……」


 ガイがこんな風に気持ちをはっきり現すのは初めてだった。ガイは自分の目と耳を疑う。これは現実のことだろうか?


「結婚は八年後、あの方が十八歳になられてからだと決まった」

「八年後だとウォルター様は二十三歳ですね。待ち遠しくありませんか?」

「ない」


 言葉には揺るぎがなかった。


「時間はいくらあっても足らない。花を作るから」

「花ですか?」

「……あの方は寒い日にお生まれになった。ここへお越しになるのも、きっと寒い日になる」


 そう言ってウォルターは腕を解き、顔を上げた。


「僕は花を作りたい。寒い日に咲く、今までにない花を。そうしてあの方に贈りたいんだ。――ガイも手伝ってくれるだろう?」


 言葉こそ問いかけだったが、濃紺の瞳には信頼が宿っていた。

 それで分かった。ウォルターが朝日が昇る前に温室へ来たのは、この話をガイにするためだった。大切な花を作るためのパートナーとして、ほかの誰でもないガイを選んでくれたのだ。


 気づいた瞬間に胸が熱くなる。

 間髪入れずにガイは答えた。


「作りましょう」


 このときから、二人の八年が始まった。


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