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1.かえして


「か・えしテ・よゥ……! かえ・しテぇェぇッ!!」



 ――幼い女の子が、悲痛な声で繰り返すその言葉が。

 そして、目の前で繰り広げる、信じられない凶行が。


 ついさっき目撃したばかりの――だけど二度と思い出したくない出来事を、その恐怖を、僕の脳裏に否応なく呼び起こす。



 それは――。

 正真正銘本物の、『非日常』の出来事だった。



 皮肉にも、非日常を楽しむための、テーマパークという一種の別世界にあって起きたそれは。

 だけど、パークが提供する幸せなものとは完全に逆方向の、『非日常』だったんだ――。




「やめ・テくれェ! 助ケ・テくれェ!

 許し・テ・くれェェッ!?」



 突然――それは本当に、突然に。


 園内の和やかな空気を、文字通りに引き裂いて。

 そんな、助けを求める台詞を絶叫しながら――。


 何事かと反射的に向けられた、大勢の人の視線の前で。


 恋人らしい女の人に膝枕されていた若い男の人が、身体を起こすや否や――その女性を殴りつけたんだ。


 ベンチを占拠していたカップルがいきなりケンカを始めることぐらいなら、驚きはしても、非日常なんて言うほどのものじゃない。


 だけどこのとき起こったのは、その程度の――。

 ケンカなんて、可愛いものじゃなかった。


 その男の人は……いきなり殴られて混乱し、地面に倒れたまま呆然とする女の人に馬乗りになると、さらに立て続けて、彼女の顔面を容赦なく殴り始めたんだ。



 一方的に殴っていながら――

 なのに、狂ったように自らが『助けて』と、命乞いめいた悲鳴を叫び続けて。



 そしてその凶行は、僕らも含めて見ている人間が大勢いたにもかかわらず――誰にも止めることが出来なかった。


 ……他人の心の中なんて分からない、だけど……。


 だけどきっと、誰も、止める勇気を持たなかったんだろう。

 怯えきって、関わろうなんて夢にも思わなかったんだろう。


 少なくとも、僕はそうだったし、周りにいた友達も同じだった。


 ――でも、そんなの……当たり前だ。


 鈍器でもない素手の打撃で、人間の頭なんて強固なものを――

 殴る自分の拳まで含めて、熟れすぎた果実みたいに、ムチャクチャに叩き潰してしまう……。


 そんな、得体の知れない異常さを目の当たりにして――誰が、割って入ってまで止めようなんて考えるだろう。



「やめ・テ――やめ・テ・くれェ! 助ケ・テくれェ!

 許し・テ・許しテ・くれぇェぇ!!!」



 夕焼けで、どこまでも真っ赤に染まった世界――。

 その中にあって、その赤を、さらに毒々しく上塗りするように。



「お願・イ・だ! お願・いお・願ヒ!

 やめ・テくレ! 許・しテく・れよォぉォぉ!!」



 冗談にさえ聞こえる助けを求める台詞を、奇妙にイントネーションの狂った金切り声で絶叫しながら――その男の人は。


 もう何が何やら分からないぐらい、ぐちゃぐちゃになった血溜まりを、さらに何度も何度も何度も……叩き続けていた。


 そう――。


 その場の誰もが、行き過ぎた恐怖に身を凍らせ、静まり返った空間に、ただ一つ……。

 ぐぢゃんぐぢゃんと、粘着質に糸を引く――嫌らしい水音を響かせながら。



 やがて、はたと手を止めた男の人が顔を上げた際に見えた、その『目』――。



 かっと見開かれた瞼の中の瞳が、どこか緩慢な身体の動きとは逆に……。

 激しい痙攣を起こしているように、一つ所に定まることなく、不規則に揺れ動き続けるそのさま。


 そのさまは――。



 そのさまは、そう……。



 今、まさに……僕の目の前で。


 自分の母親の口から喉の奥へと、腕を無理矢理突っ込んでいる、幼い女の子のそれと……まったく同じだった。



「か・えしテ・よゥ……! かヱ・かえシ・テぇェ……っ!!」



 人の口も、喉も、腕なんて通すように出来てない。当たり前だ。


 ……なのにその子は、どこかおかしい涙声で哀しげに「かえして」と繰り返しながら、容赦なく腕を突き入れていた。


 もう片方の手を、すでに白目を剥いて身を痙攣させるばかりの母親の顎にかけて――力尽くで引き裂いて、侵入口を広げながら……!



 ――オープンに向けての準備中なのか、テーブルも椅子もまだ用意されていない、がらんとしたレストラン――。


 僕ら修学旅行生も含む観光客の一団が、あのカップルの間に起きたおぞましい異常事態と、それによるパニックを避けて、ひとまず逃げ込んだのがそこだった。



 そんな中で、みんなと同じように怖がって――。

 けれど母親にしっかり抱きしめられていることで安堵したんだろう、つい今までうとうとと舟を漕いでいた、ごく普通の女の子。


 そんな子が……何の予兆も前触れもなく。

 目を覚ました途端、いきなり想像を絶する凶行に走ったことに――。


 しかもそれが、逃げて遠ざけたはずの、あのカップルの間に起きた異常事態と同じ類のものであることに気付いて――僕らは、恐怖に竦み上がった。



「な・イよぉ……! な・ナい・いぃィぃィーーッ!!」



 首まで裂けた母親の口から、ブチブチと何かが千切れるような音をさせながら……女の子はずるりと腕を引き出す。


 その手には――血塗れの雑巾のようなものが握られていた。

 それが何なのかなんて……想像も出来ないし、したくもなかった。



「こレ・じャな・ない……。こ・コこ・こじゃ、ナい……?

 ――かえ・しテよぅゥぅーー!!」



 口元から血の泡と、奇怪な鳥の声のような悲鳴を、途切れ途切れに溢れ出させて――。

 女の子の母親は、ついには人間の動きとも思えない痙攣を始める。


 だけど、女の子にとっては――そんな母親のあまりに痛ましい姿も、まるで興味を引くものじゃなかったんだろう。


 彼女は、握っていた雑巾のようなものをあっさり血溜まりの中に落とすと。

 血が糸を引いて滴る、真っ赤な小さい手を、僕に――。


 一番近くにいた僕に、伸ばしてきた。




「……こっ・チ・だ」




 ――そのとき、僕は見た。

 女の子の顔の右半分が――右半分だけが。


 まるで痙攣のような激しい動きをしていた瞳も、そちらだけがぴたりと止まって――笑顔を、形作ったのだ。


 感情のまるで無い、虫を思わせる無機質極まりない、嫌らしい笑みを、ニタリと――ほんの一瞬だけ。



 ……そして――。

 信じられないことだけれど――僕は、それを。



 どこかで、見た覚えがあるような……そんな気が、して――。



「――景司けいじッ!!」



 ――その怒声と、何かがぶつかる鈍い音が、僕をハッと我に帰らせる。


 気が付けば、こちらに手を伸ばしていた女の子は仰向けに倒れていて……僕の傍らには、モップを手に息を荒げる友達――泰輔たいすけが立っていた。


 彼女が僕をどうするつもりだったのかは分からない、だけど――とにかく、危険と判断した泰輔が、僕を助けてくれたことは間違いない。



「あ、ありがとう、泰輔……!」


「いいから、とにかく逃げるぞ!

 ――ほら、お前らも!」



 泰輔は僕に手を貸しながら、放心したように座り込んだままでいた、周りの他の友達も叱咤して立ち上がらせる。


 ――そうした彼の行動が、僕ら以外のこの場の人たちにも影響したのか。


 みんな、一斉に思い出したかのように動き出し――

 我先にと、ここから逃げようとする。


 けれど、入り口の辺りは狭い。

 一度に殺到したんじゃ、通れるものも通れない。



 その僅かな時間に――。

 泰輔に殴り倒されていた女の子は、突然、むくりと起き上がった。



 そして……まだ動かずにいた、僕と友人たちじゃなくて。


 入り口近くで密集している人々の方へ、どこかぎこちない足取りで近寄ったかと思うと――最後尾にいた男性に飛びついた。



「か・ヱしテ・よぅゥぅーー!!!」


「ヒッ――あ、うわあああああっっ!?」



 明らかな体格差のある大人の男性が、必死になって抗うのを、いともあっさり押さえ込んで……女の子は母親にしたのと同じように、男性の口を開かせる。


 そして、思わず目を背けた瞬間――。

 恐怖に泣き喚く男性の悲鳴が……何かで塞がれたように、唐突にくぐもった。



「ど、どう、どうしよう……!」


 友達の誰かが、震える声で呟く。



 ――入り口付近のパニックは、最高潮に達している。

 このまま同じように逃げようとしたところで、それに巻き込まれるだけだ。


 厨房の方へ回り込めば裏口があるだろうけど、そのためには、今まさに男性を襲っている女の子の側を通り抜ける必要がある。


 あとは――。



「……あ、これ!」



 僕は、店内装飾として壁際に並べられている、壺のような形の大きな花瓶に気が付いた。

 それに駆け寄りながら、仲間内で一番身体が大きくて力も強い康平こうへいに声を掛ける。



「――康平っ! これで、窓っ!」


「お? お、おうっ!」



 一瞬、戸惑いながらも、僕の言いたいことを理解してくれた康平は……。

 僕に続いて花瓶を手に取ると、店外に面した一面の大きなガラスに向かって、思い切りそれを投げつける。


 衝撃に強いガラスだったらどうしようという不安もあったけれど、それは杞憂に終わった。

 テーマパーク内の店舗だから、そんなに強度を気にする必要が無かったのか、ガラスは思った以上にあっさりと割れたのだ。


「――よしナイス、景司、康平!」


 泰輔は僕らを労いながら、モップの柄を使って窓枠に残った危険なガラス片を素速く払い除けると、仲間内の女子に、先に外に出るよう促す。


「……そら、お前らから行け! ガラスで切るなよ!」


 慌てて、しかし言われた通りガラスに気を付けながら外に出る女子たち。

 その安全を見届けてから、僕ら男子も後に続く。


 窓枠に足をかけ、一瞬振り返った背後では――。

 あの女の子が男性の口中からまた、血にまみれた何かを引きずり出すところだった。



 かえして――と、悲痛な声をあげながら。



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