「ねえ……ねえっ、どうしよ、どうしよう、これから……っ!」
石造りのベンチに腰を下ろした
初めに目撃したあの男の人と、母親の喉に手を入れていた女の子――。
まるで普通じゃない、あの、瞳が激しく痙攣し、焦点の合わない『目』をしている人間は……いつの間にか、彼ら二人だけじゃなくなっていた。
レストランを出てから、実際に僕らが見かけたのはほんの一人二人だったけど、それは一部でしかないと、必死になって逃げ惑っている人たちの数と……どこからか聞こえてくる悲鳴や叫び声が、物語っている。
そして、そうなった人たちに不用意に近付いたりすればどうなるかは――。
意識して見ないようにしても、視界の隅にちらちらと映り込んでしまう、元は人間だっただろう変わり果てた『物体』――。
テーマパークの演出ではありえない、あまりに生々しすぎるそれが、鮮明に教えてくれていた。
「……とにかく、まずは園外に出るしかないだろ」
美樹子の問いかけに……一番初めに、吐き捨てるようにそう答えたのは
彼も、この突然の状況に混乱はしているはずだけど……まず考えられることだけでも考えようとするその性格のお陰か、僕らの中でも比較的落ち着いて見えた。
「で、でも、でもさっ、ここって……!」
美樹子は震える手で、ブレザーのポケットから、丁寧に折り畳まれたパンフレットを取り出す。
それはここ〈ミシカルワールド〉に入場するときにもらったものだ。
――描かれている園内案内の地図の上を、美樹子の細い指が震えながらなぞる。
少し惑いながら、最終的に彼女の指が示したのは、僕らの現在地……パルテノン神殿とかを模したような造りの、野外休憩所だった。
けれど、彼女が言いたかった問題は、現在地そのもののことじゃない――。
「……そう、ギリシャエリアだ。
正直、入場ゲートからは一番遠いよな……」
レストランからそのまま持ち出してきたモップで、かつかつと石畳を叩きながら、
それはまさしく、全員の思いの代弁だ。
――世界の神話をテーマとして掲げているこの〈ミシカルワールド〉は、そのテーマ通り、神話や伝説をモチーフにしたアトラクションを、ヨーロッパ、インド、エジプトなど、出自の地域ごとにくくってエリア分けしている。
そしてここ、ギリシャエリアは、泰輔が口にしたように、その中で入場ゲートからはもっとも離れた位置にあった。
しかも――ミシカルワールドは建設されるとき、日本最大規模のテーマパークとして話題になったほどの敷地面積を誇っている。
それだけに、一部エリアに園内宿泊施設が存在するぐらいで……今いる場所から迷うことなく最短距離を通ったとしても、入場ゲートに辿り着くまで、徒歩だと最低でも1時間以上かかることは間違いなかった。
「な、何かこう、他の出口みたいなの……ねえのかな」
「――無いわよ、あるわけない。
絶海の孤島みたいなもんなんだから!」
康平の呟きに対して、
……そう。
〈
つまり、それ以外はぐるりと海に囲まれているのだから、芳乃の表現はあながち間違いでもない。
もっともそれは、こんな事態になったからこそ、でもあるのだけど……。
「なあ、芳乃ぉ……そんな言い方すんなって。
わざわざ不安煽ってどうすんだよ」
「……でも、事実じゃない。
やんわり言えばどうにかなるって言うならそうするけどさ!」
「そうじゃなくて、これ以上不安にならねえようにって――!」
芳乃に釣られるように、泰輔が抗議の声を荒げたそのとき。
ぐしゃり――と。
何かが風を切ったかと思うと、僕らのすぐ側で、柔らかいものが潰れるような耳障りな音がした。
僕らは揃って――弾かれたように、無言でそちらへ目を向ける。
……ベンチの近く、花壇の中に立つ石柱に、赤い血の花を咲かせて張り付く何か――。
やがて少しずつずり落ち、花壇の色とりどりの花の中に埋もれたそれが、信じられないほど強い力で叩きつけられ、ひしゃげた人間の腕だと気付いた僕らは。
腕が飛んできた方向を振り返り――そこに、ふらふらした足取りで植え込みも花壇もお構いなしに突っ切って、こちらに近付いてくる人影があるのを見つけた。
「死な・ナ・な・いデぇェ……!!
だメ・駄・めだぁぁ! 死ィぃぃな・なイ・イでぇェぇーー!」
――叫び声に続いて、人影はさらに何かを投げつけてくる。
さっきの腕とは別の石柱にぶつかったあと、ボールのように跳ね返って、僕らの足下にごろりと転がって来たそれは――。
僕もその顔に見覚えのある、同じ学校の女子の……首だった。
「や――イヤあああああっ!!!」
……僕だって、顔から血の気が引くのが分かるほどだった。
そんなぐらいだから、さっきから僕らの中で誰より怯えていた美樹子にとっては、本当に衝撃だったに違いない。
面識だってあったかも知れない女子の血みどろの首に、パニックに陥った彼女は……。
ベンチから転がり落ちるように離れるや否や、立ち上がりざま、この場に背を向けて一目散に逃げ出した。
「――待って、一人で行っちゃダメだ!」
そんな友達の行動に、僕自身は却って冷静になれたらしい――。
急いで呼び止めたけれど、まるで耳を貸さず、美樹子は庭園から、通りの方へと飛び出していった。
それにいち早く反応した泰輔や芳乃が、美樹子を追って走り出す。
「
祥治に促され、手を振り回し、何かを喚きながら近付く人影をちらりと確認してから、僕もみんなを追って庭園から走り出る。
――このエリアのメインストリートにもなっている、古代ギリシャをイメージしたものらしい少しばかりごつごつした石畳の広い通りは……気付けばここへ辿り着いたときに比べて、随分と人の数が減っていた。
今見かけるのは、逃げ疲れて息を休めていたり、混乱の中ではぐれた知り合いを探しているような人がほとんどだった。
……それもそうだろう。
さっき僕らが話し合っていたように、園内から逃げ出そうとするなら入場ゲートへ向かうしかないのだから――ゲートに一番遠いこのエリアから、徐々に人が減っていくのは当然だ。
美樹子は小柄な上に子供っぽいところが多分にあって、怖がりだけど……運動神経自体はむしろ、良いと言えるぐらいの部類に入る。しかも陸上部員だ。
そんな彼女が必死に、
その先、海峡を模しているらしい広い水路に架かる橋を越えた向こうには、長大にそびえる石壁に口を開けた、屋内型のアトラクションの入り口が見えた。
「はあ、はあ……くそ、あの、バカ……!」
美樹子がアトラクションの中に逃げ込んだのを見届けたところで力尽きたんだろう。
薄暗い入り口の前では、先頭を走っていた泰輔と芳乃が地面に座り込み、大きく口を開けて必死に酸素を取り込んでいた。
他の仲間も、同じように一旦そこで足を止めて、みんなで息を整える。
周囲の様子を確認しながら後ろについていた僕は、近くの植え込みの側に、園内清掃の人が逃げる際に置き去りにしたものだろうモップを見つけたので……泰輔のようにいざというとき武器にしようと拾い上げてから、みんなのところへ駆け寄った。
「あの子、こんな、ときにまで……迷惑、かけなくても、いいでしょうに……!」
苦しげな息の下、悪態を吐いているけど……芳乃は美樹子とは僕らの中で一番古い付き合いだ。追いかけるときの反応といい、一番心配しているのは間違いない。
「……ダメだ、やっぱりスマホ、繋がらねえよ」
美樹子に電話が繋がるかどうかを試していたらしい康平が、スマホ片手に首を横に振る。
それを受けた祥治も、難しい顔でため息をついていた。
「状況が状況だし、あいつ自身、かなりのパニックだったからな……。
外で出てくるのを待つより、探しに入った方がいいかもな」
「……にしたって、まったく、もう少しマトモな所に逃げ込んでくれればなぁ……!」
泰輔が、ついと入り口の上に視線を向ける。
そこに、おどろおどろしい意匠を凝らされて掲げられた文字は、ラビリントス――即ち『迷宮』だ。
牛頭人身の怪物ミノタウロスを閉じこめたという、名工の手による迷宮をモチーフにした巨大迷路型の屋内アトラクション……。
その本来の意味ももちろんのことながら、何か言葉自体の持つ暗示的なイメージに、僕は不快感を覚えずにはいられなかった。
けれども、ここで足踏みしていたところで何も解決しないのは確かだ。
「……とにかく行こう。
これからどうするにも、まずは美樹子と合流しないと」
僕はみんなを促すと……先んじて、薄暗い照明の下に足を踏み入れた。