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3.しっかりしないと


「! これ……」


 ……やっぱり、と言うべきだろうか。

 美樹子みきこが逃げ込んだアトラクションの中にも、痛ましい惨劇の跡は刻まれていた。


 巨大な獣に食いちぎられたかのように、首の大部分を失った人の亡骸が、壁にもたれたり、床に倒れたりして、幾つも転がっている。

 ――まるで迷宮の奥から本物の怪物が現れて、暴虐のままに殺戮を行った……とでも言わんばかりに。


 だけどこれまで見てきたようにきっと、その怪物は迷宮からではなく突然、何の前触れもなく、順番待ちをしていた人の中から現れたんだろう。


 床の上には様々な私物や衣服の切れ端、そして哀れにも逃げ惑う人々に踏み潰されたらしい――けれどもこれまで目にしてきた中ではある意味まともとも言える――子供の死体までもが転がっていて、ここでも想像を絶する恐怖による大混乱が起こったことが窺える。


 そうして視線を動かしていた僕は……。

 ふと、アトラクションのイメージに合わせて銅板で作ってある、順番待ちの順路を示す案内板に、赤いペンキのようなもので落書きがしてあるのを見つけた。

 そこに書かれていたのは、たった一言。




 ――『せかい の うらがわ』




「………?」


 何のことだかさっぱり分からない。

 だけど、何か……何か引っかかるものを覚えて、僕は案内板から目を離せずにいた。



「ちょっと景司けいじ、どうしたのよ?」


 芳乃よしのに肩を叩かれた僕は、何とも説明しづらくて、とにかく「これ」と案内板を指差してみせる。


 けれど――


 僕が示すままに案内板を見つめた芳乃は、「今さら血飛沫がどうだってのよ?」と眉をしかめただけだった。


「違うよ、そうじゃなくて、この字――」


 ……反論しようとして、ぎょっとした。


 案内板に付いた赤いものは、確かに血飛沫で――そしてそれは、まるで字の体裁など成していなかったんだ。


 さっきは確かに文字に見えた――そのことに困惑する僕に、芳乃はさっきまでの苛立ちを抑えて、「大丈夫なの?」と声を掛けてくれた。


 それで何とか気を取り直した僕は、見間違いだと思い直して――改めて、「ごめん、何でもない」と首を振る。



 ……そうだ。よくよく考えてみれば、こんな異常な状況だ。

 冷静でいるつもりでも、少なからず混乱しているはずなんだ――妙な見間違えとか、そんな錯覚ぐらいあったっておかしくない。


 でも、そんなときだからこそ……しっかりしないと。


 既に芳乃は僕を追い越し、泰輔たいすけたちも、先に立って奥へ進んでいる。

 つい立ち止まっていた僕は、モップの柄で自分の額を小突いて自らを叱咤すると、その後を追おうと足を踏み出す。


 ――と、また背後から声を掛けられた。



「ホントに大丈夫?」



 反射的に振り返った僕の視線と交わったのは、青い瞳――。

 きれいな金髪を揺らし、心配そうに上目遣いで僕を覗き込む、ユリの青い瞳だった。


「……大丈夫だよ。僕も、ちょっと混乱してたみたいだ」


 こんな状況でも――いや、だからこそなのか。

 あまり前に出ようとせず、自己主張らしい自己主張もせず、ただ僕らの後ろについて来るばかりの内気なユリに、僕は精一杯の空元気で微笑みかけた。

 ――そんな僕の思いを理解してくれたのか、ユリも弱々しいながら笑って頷き返す。


「――おい! そっちまではぐれたりすんなよ!」


 気付けば随分前を行っていた泰輔の呼びかけに、僕らは慌てて駆け足で追い付いた。



「なあ……。

 まさか、この中にまだ『誰か』いるってこと、ないよな……?」



 迷路の入り口になっている、両開きの扉を模したゲートを、いざ抜けようというとき――康平こうへいが何気なく呟いたその一言に、全員が思わず足を止めた。


 彼が言うところの『誰か』が何を指すのかは、誰もが分かっているに違いない。

 分かっていて、敢えて今までその可能性について考えないようにしていたはずだ。


 ただでさえ愉快な想像じゃないのに、何せ目の前に口を開けているのは、ニセモノとはいえ怪物を閉じこめたという迷宮だ。

 考えれば考えるだけ、恐怖を思い描けば描くだけ……それが実体化してしまうような、そんな不安感にかられてしまう。


 それは冷静に省みれば、部屋の隅の暗がりに怪物の姿を想像して怯えるような、子供じみた不安かも知れない。

 だけど馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばすには、僕らの置かれた状況はそれこそ……あまりにも、どうしようもないぐらいに……馬鹿げていたんだから。


「ちょっと……何なの康平、こんなときに余計なこと言わないでよ!」


「あ――いや、そんなつもり……。悪い」


「でも、康平の言うことにも一理ある。

 その可能性を無視するわけにもいかないだろ」


 ばつが悪そうに大きな身体を縮ませる康平を慰めるように、祥治しょうじはその背中を叩くと……。

 順番待ちの列を整理するロープを張るのに使われていたらしい、細い金属の杭を床の穴から抜いて手に取った。


「一応、何もないよりはマシだろ」


「……だよ、な」


 祥治に続いて康平が、そして芳乃も、同じように金属の杭を抜き出して携える。

 その間に僕も、振り回すときに邪魔になりそうな、モップの金具部分を外しておいた。


 それからふと気付いて、どうするのかとユリにも視線で問いかけたけど……彼女はいらないとばかりに首を横に振った。



 ……そうして、形だけでも武装を済ませた僕らは、そのまま一丸になって迷宮に足を踏み入れた。


 演出として意図的に弱められている照明は、恐ろしげな雰囲気を効果的に盛り上げるだけでなく……偽物のはずの石壁や石畳を、長い年月を過ごして苔むした、威厳漂う本物のように見せかけている。

 また、来訪者を飽きずに楽しませるため、これらの壁は動き、日によって迷宮の構造が一変するという仕掛けも施されているらしい。


 もっとも、今の僕らには、そのどれもが余計なお世話といったところだけど……。



「……お――」


 先を歩く泰輔が、急に少しよろめいたかと思うと、慌てて壁に手を突き身体を支える。

 ……何があったのかは、尋ねなくても分かった。


 僕ら全員、同じように一瞬バランスを取って、身体を支えなくちゃいけなかったからだ。


「地震だね。……治まった、かな」


 震度2から3ぐらい……だろうか。

 揺れ自体を身体ではっきりと知覚出来る程度で、壁の装飾が落ちてきたりするほどじゃなく、すぐに治まった。

 正体の分からない異常事態に加えて、天災にまで襲われるなんて冗談じゃないけど――


「次に、デカいやつが来るかも知れねえけどな……」


 ……泰輔の言う通りだ。

 状況が状況だけについ悪く考えがちになってるのかも知れないけど、今のがあくまで前触れでしかなくて、次にもっと大きな揺れが来るとしたら、こんな場所にいたら危険極まりない。

 建物が潰れるとまではいかなかったとしても、重い装飾の類が外れて落下してきたりするぐらいは、充分ありえることだ。


「生き埋めとか冗談じゃないわよ!

 さっさとあの子探して、ここから出ましょ!」


「だな。それじゃ……」


 しばらく進み、最初の分岐点にさしかかったところで、泰輔が振り返った。


「――ここから二手に分かれよう。

 危険かも知れねぇけど、その方が早いだろ」


「連絡はどうする?

 スマホは……こんなときだ、いざってときに通じるか分からねえだろ?」


「他に客もいないし、最悪、スマホに頼らなくても大声出せば届くって。

 ――で、みんなそれでいいか?」


 僕らは一度互いに顔を見合わせるも、特に泰輔の案に反対する意見は出なかった。


「よし、それじゃ、俺は祥治と左に行くよ。景司と康平は右を頼む」


「ちょっと、じゃああたしは!?」


「ああ、どっちでも好きな方に――」

「なにそれ?

 どうせ女は役に立たないから、ってこと!?」


「違うって。適当に分けただけだからだよ」


 気が焦っているせいもあるんだろう、いつにも増してピリピリした様子の芳乃は、納得したともしてないともつかない調子で鼻を鳴らすと、僕らの側――右へ進む面々の方へ足を向ける。


 さらに、2つのグループを見比べるユリにもどうするのかと問おうとしたけれど、彼女はいつものように僕の後ろへと駆けてきた。


 これだと人数的には明らかに偏りが出るけれど、女子は女子でまとまっている方がいいと判断したらしい。

 泰輔も祥治もユリの行動に何を言うでもなく、ただ頷いて、左の通路へと向かう。


「――泰輔も祥治も、気を付けて」


 僕が言うと、2人は思い思いに手を挙げた。


「お前らもな」

「危険なことがあったらすぐ逃げろよ」



「……じゃあ、俺らも行こう、景司。

 早いとこ美樹子、見つけねえと」


 康平に促され、芳乃、ユリも含めた僕ら4人も、分岐点を右側へと進んでいった。



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