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5.ごめんなさい


「今のって……!」

「――ミキ! アンタなの!? 返事しなさい!」


 うっすらと聞こえてきた泣き声に、芳乃よしのが、我慢出来ないとばかりに大声を上げた。

 壁に吸い込まれるように響く彼女の声……それに応える者があるのを、僕らは息を殺してじっと待つ。


 けれどしばらくそのままでいても、返事が返ってくるどころか、すすり泣きそのものすら聞こえなくなってしまった。



「……違ったのか? でも、だったら――」


 最悪の遭遇を想像したんだろう、康平こうへいは落ち着き無く周囲に視線を巡らせる。


「待って。あの子のことだから、怖がって、あたしたちだってこと理解出来てないのかも知れない。

 ――確かめに行きましょ」


「お、おいおい、マジかよ……」


 二の足を踏んでしまう康平の気持ちも分かる。

 分かるけど……だからといってここで尻込みするぐらいなら、初めからここへ来た意味がない。


 僕は励ましの意味を込めて康平の背中を軽く叩くと、芳乃に並んで、泣き声が聞こえたと思われる場所へと、壁を大きく回り込んで進んでいく。


 やがてつづら折りになった通路は、徐々に、声が聞こえた元の地点へと戻っていくように伸びていた。


 いっそ素直な直線であってくれたなら、見通しも利いて、多少は恐怖も和らいだかも知れない。

 けれどつづら折りのような構造ではそうもいかず、僕らは鉤状の曲がり角に来るたびに、激しい緊張感に苛まれながら向こう側を覗き込み、安全を確認してから進むという作業を繰り返す。

 ――知らず知らず、モップを握る掌にはじっとりと汗が滲んでいた。



 そうして、何度目かの角を折り返したとき――。


 僕らは通路の先の暗がりに、うずくまって小さくなった人影を見つけた。



 僕や康平は、その正体が見極めきれずに一瞬身体を強張らせてしまったものの、芳乃はそうじゃないみたいだった。



「ミキっ!」



 強い口調で名を呼びながら、彼女は僕らを追い抜いて人影に駆け寄る。


 その存在にようやく気付いたんだろう、立てた膝に埋めていた顔を上げてこちらを見たのは、確かに――泣き腫らして目元を真っ赤にした、美樹子みきこだった。


「よし、の……?」

「何やってんのよ、アンタは! 心配したでしょ!?」


 眉間に深く皺を寄せた、泣いているとも怒っているともつかない複雑な表情の芳乃は、美樹子の前に座り込むとその両肩を掴んで、真っ正面から顔を突き合わせる。


 一方の美樹子は、今度は安堵からだろう、泣き腫らした目からまた涙を零れさせ、小さな子供のように嗚咽をもらしながら「ごめんなさい」を繰り返していた。


 同じ言葉の繰り返し――。

 そこから浮かぶ不吉な連想に、僕はぎょっとなって彼女を見る。



 あの若い男の人も、あの女の子も。


 おかしくなったとき、あの状態になったとき……同じような言葉を繰り返していなかったか――?



「――!」


 まさか、という疑いが沸き起こる。


 だけどそれを晴らすよりも先に、まず何より芳乃を遠ざけなきゃいけないんじゃないか――そんなほんの一瞬の迷いの間に、美樹子はすっと手を持ち上げていた。


 果たして、彼女の小さな手が行き着いたのは――。



「ごめんね、芳乃、ごめんなさい……」



 ……芳乃じゃなく、彼女自身の顔だった。

 何のことはない、鼻水をすすり上げながら、目元を少し乱暴に拭う……ただそんな普通の反応のためだけに過ぎなかった。


「……ふう……」


 自分で驚くほど大きな安堵の息を吐きながら、気の抜けた僕は、側にあったオブジェらしきものに手を突いて身体を支える。


 それは、よく見ると……骸骨のまとわりついた墓石だった。


 恐らくここは、迷宮の壁がどう動こうと、必ず袋小路になるように設定されている地点なんだろう。

 だからこんな風に、それらしい演出の小道具が配置されているに違いない。


「………?」


 状況が状況だけに、気持ちのいいものじゃないのは確かだったけど――僕はそれ以外のことで墓石に注意を引かれていた。


 ――そこに、知った人間の名が刻まれていたからだ。



「え……あ、え?」



 見知った名前という以外、なぜか、誰なのかが分からない……。

 だから改めて目を凝らし、手で触って確かめてみる。


 けれども――やっぱりって言うべきなのか。


 何度見直しても、そこに刻まれているのは特に意味も無さそうな、流暢なアルファベットを思わせる、文字の羅列でしかなかった。



 ……軽い、目眩がした。



「……そりゃね、ミキ、アンタのショックも分かるわよ? あたしだって、怖くて怖くて仕方ないんだから!

 でもこんなときなんだから、何とか踏ん張って頑張るしかないの! みんなそう!

 だからいつもみたいに、泣いてれば誰かが何とかしてくれる、誰かに何とかしてもらおう――なんて、甘ったれたことは考えないで!」


「なあ、芳乃……お前が怒るのも分かるけどさ、それぐらいにしといてやれって。

 今、美樹子をこれ以上へこませたって、何にもなんないだろ? な?」



 芳乃の怒声に気を取られ、墓石に手を突いたままふっとそちらに目を向けると……。

 ちょうど康平が、彼女をなだめにかかっているところだった。


 大柄な見た目とともに、気性も、人との接し方も、比較的大らかで穏やかだからだろう。

 普段から康平は、僕らの中でこういう緩衝材的な役割に回ることが多い。

 ……そしてそれは、まさしく適役だった。


 今回も、芳乃はその仲裁に対して何かを言い返そうとはしたものの……自分で自分が思った以上に熱くなっていることに気付いたんだろう。

 康平の言を受け入れて素直に頷き、美樹子に言い過ぎたことを謝ると、その手を取って立ち上がらせた。


「……よかった」


 ユリのそんな一言に、相槌を打つ頃には……僕の目眩も、すっかり治まっていた。


「そうだね……とにかく、無事で良かったよ」



「……みんな、ごめんなさい」


 芳乃に叱られて落ち込み気味ではあるものの、涙は止まり、落ち着いた調子のしっかりとした声で僕らにも謝ってくれる美樹子。


 そんな彼女に、大丈夫、と答えていると……僕のポケットの中で何かが震えた。

 反射的にびくりと身を竦ませるも、それが、マナーモードにしてあったスマホだということにはすぐ気付いた。

 取り出して見てみると、着信表示は祥治しょうじからであることを告げている。



《景司(けいじ)? 聞こえるか?》



 スマホからは、少しばかり遠い感じの祥治の声が聞こえてきた。


「うん、何とか聞こえる。そっちは?」


《少し遠いが、何とか。

 ……で、どうだ? 美樹子の手掛かりでもあったか?》


 祥治の問いかけに、僕はこれ以上ないほどいいタイミングで連絡してきてくれたことを告げる。

 美樹子の無事を話すと、祥治の声にも安堵の色が表れた。


《……ひとまず、最悪の事態は避けられたわけだな。

 じゃあ、入り口の方で合流――》



 ――瞬間。

 それは、本当にいきなりの出来事だった。


 ドンッ、というような――けれど、ただ音と呼ぶにはあまりにも大きな空間ごと揺るがす衝撃が、僕らの会話を強引に断ち切ったのだ。



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