金色のカタツムリは、何度も何度も訴えていた。
僕に。見てはならない、と。
……なにを? なにを見てはいけないの?
金色のカタツムリは、何度も何度も訴えていた。
僕に。見られてはならない、と。
……なにに? なにに見られてはいけないの?
彼女は応えて言った。
それは真っ白のっぺりなピエロだ、と。
とても小さくて見えないものだ、と。
でも――見えるのだ、と。
……もう、遅いのに――。
どろりとしたペンキの感触が、あまりに生々しく、途方もなく恐ろしくて――払い除けようと手を振ると。
視界に映り込む光景は……どこかの部屋の天井に切り替わっていた。
「おい、大丈夫か
はっと身体を起こすと――ベッドの側にいたらしい
……そうか、夢だったんだ……。
そう気付いた途端――。
夢の光景も、何に怯えていたのかも……まるで錯覚だったように、すっかりと分からなくなってしまう。
「そうだな、うん……名前、言えるか?
俺は? お前は?」
祥治の問うままに、僕は名前を答える。
それに満足したのか、彼はふうとため息をつきながら、隣のベッドに腰を下ろした。
「どうやら、大丈夫らしいな」
「うん……ごめん、驚かせたみたいで」
祥治を見る限り、どうも僕は、結構大げさに夢に反応していたみたいだった。
少し気恥ずかしくなって、窓の方に視線を逸らす。
……射し込む太陽の光は、依然、夕日のような色だった。
枕元のスマホを手に取ってみると、これも相変わらずで……現在は79時を指していた。
先生に連れられて、このホテルに戻ってきたのが、確か28時頃だったと思うから……少なくとも表示時間の上では、実質、丸2日は経過していることになる。
ふと、一応そのことを記録しておこうと思い立って。
ベッド脇に置いたバッグから、メモ代わりにと持ってきていた小さめのノートを取り出し、ボールペンで日数を書き込んでいると……。
祥治も同じようなことを考えていたのか、「もう、丸2日は過ごしたわけだな……」と呟いていた。
……この2日間、僕らは眠る際には一応、起きて見張りをする役を立てて、何かあったときのために備えていた。
けれど幸いにも、僕らはもちろん、周囲で誰かが『あの状態』になったりするようなことはなくて……一応は、平穏無事とも言える時間を過ごせていた。
もっとも、窓を開けていたりすると、どこからともなく小さく悲鳴が聞こえることは何度かあったから……あの状態に陥った人間そのものがいなくなった、というわけじゃないんだろうけど――。
「
「だから言っただろう? それはただの偶然だって。
眠ったらどうにかなるなんて、さすがにいくら何でも考えすぎだ、そんなの」
言って、祥治は苦笑する。
泰輔と僕の、眠っているときにあの状態になるのではないか――という考えについて、祥治は話したときから否定的だ。
もっとも、動かない太陽や時計の異変についても、異常気象みたいなものとか、きっと何か科学的に明確な根拠があるはずだ――って主張するような彼のことだから、否定的な意見に回るだろうとは予想出来ていたけど。
「まあ、景司、今さっきのお前には、さすがに俺も驚いたけどな……。
実際のところは、夢を見てただけなんだろう?」
「うん……まあね……。
あ、そういえば泰輔は? いないみたいだけど」
僕は部屋を見渡して尋ねる。
ここは、僕、泰輔、祥治、
「
こうやって少しでも休めた分、多少は落ち着いたようだから……大丈夫だとは思うけどな」
それから祥治が、「ちょっと散歩に出ないか」と提案するので……僕も一緒に、ホテルの外の様子を見に行くことになった。
ホテルの周囲、いわばミシカルワールドのお膝元の街並みは全体的に、訪れる観光客にとってメインである、パークのイメージに合うようにデザインされていて……。
もちろん道は公道だし、居並ぶ商店もパーク直営ばかりというわけではないから、控えめなものではあるのだけど……それでも訪れる人間の気分を、否応なく高めてくれる明るい雰囲気がある。
――いや、あった、だろうか。
地震の影響がパーク側よりもマシだったのか、ともかく僕らの泊まるホテルも含めて、完全に倒壊するような建物は少なかったようだけど……。
それでもゼロというわけではないし、砕けて道路に散らばった店先のガラスや、落ちた看板や装飾物、そして至る箇所に走る亀裂を見ていると、元がいかにもな明るい雰囲気だった分、余計に何か寂しさのようなものを感じてしまう。
見かける人も、そのほとんどが生気を感じさせず……まさしく、ゴーストタウンという形容がしっくりくるほどだ。
もちろん、街の被害はそれだけじゃない。
明らかに地震とは関係ない死体と、おぞましい血飛沫の彩りは、ここでも様々な場所に存在したし……。
さらには聞くところによると、『あの状態』にはなっていないはずの人たちまでが、自暴自棄の果ての破壊だったり、あるいは混乱に乗じての略奪のために、商店とかを襲ったりすることが起きているらしい。
僕らの後からホテルに戻ってきた同級生の中には、現にそうした人たちに襲われかけた子もいたみたいだ。
そんなわけだから、僕と祥治も、散歩程度の外出だったけど、適当な道具で最低限の武装をしている。
もう、このたった1日2日程度の間に、それが長年の習慣のようにすらなっていた。
……僕らは特に何かを話すでもなく、ホテルに沿った歩道を歩く。
そんな中、車道を挟んだ向かいの歩道に、血の海に沈むように倒れている死体を見た祥治は……。
眉間に皺を寄せて立ち止まり「まさかと思ったが」と、苦々しげに呟く。
どういうことか僕が尋ねると、その表情のまま、祥治は答えた。
「さすがにもう、現実的な考えをするのにも限度があるのかと思ってな……。
見ろ、あの死体。
あれは俺たちがホテルに戻ってきた頃にはもうあったんだが……おかしくないか?」
さすがにあまり近付いてまじまじと見たいものでもないので、ここから観察するだけだけど……おかしいと言えば常識的には充分におかしい死に方だという以外、僕には変わったところは見つけられなかった。
むしろ、今僕らが置かれている状況の中では、ごくありふれた死に方だとすら思ってしまうぐらいだ。
「死に方とか……そういうんじゃないんだ。
今、6月だろう? 真夏ってほどじゃないが、それでももう初夏だ。
なのに――時計の表示からすれば、そう、丸2日間は外に放置されていたはずなのに、何も状態に変化が無いなんて……いくらなんでもおかしいだろう?」
……祥治の言う通りだった。
死体は、ここから見るだけでも、まさについさっき命を落としたばかりのように、ある意味『きれい』だ。
だけど確かに、常識的に考えるならそんなはずはない。
腐敗とまでいかなくても、そうなる過程にあって当たり前のはずなんだ。
僕は思わず、一向に動かない太陽の方へ目を向けていた。
……そう――。
時間そのものが、固まってしまっているのでなければ。
「……映画やらドラマやらで、時々『時間が止まってしまえば』なんて台詞は聞くが――」
小さなため息混じりに、祥治は足下の小さな瓦礫を蹴り飛ばすと……それを追いかけるように歩き出す。
「実際にそうなってみたら、こんな最悪の状況だ。いい皮肉だよ。
……で、結局そんな馬鹿げたこと願うような奴に限って、こんなとき、あっさりと生きるのを諦めてたりするんだろうな」
「まさか、祥治……?」
自嘲気味にそんなことを言う祥治がふと心配になって、足を速めて隣に並ぶと……彼はいかにも心外だとばかりに、「バカにするなよ」と鼻を鳴らした。
「それこそまさかだ。
確かにもう現実的な考えなんてまるで通用しないかも知れないが、だからといって諦めてたまるか。
俺だって、まだやりたいこととか――」
話しながら、何かを見つけたのか――ふと、立ち止まったかと思うと。
祥治は急に、道路を挟んだ向かいの歩道の方へと走り出した。