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9.知っている


 ユリという名が出たせいで、思わず僕は大きな声を上げてしまって。


 それで僕という存在に気付いたのか、階上の男女の会話はぷつりと途切れてしまい……続けて聞こえてきたのは、誰かが歩き去っていく足音。


 しまった、と思うと同時に、改めて興味本位で盗み聞きしていたことに罪悪感を覚えた僕は……。

 このまま立ち尽くしているよりは――と考えて、そのまま階段を上がり切り、まだ1人は残っているはずの、会話していた人の前に姿を見せた。


 思った通りまだそこにいて、僕の方を振り返ったのは――年の頃は30代ぐらいの白人女性だった。

 きっちりとしたスーツを着た人で、外資系大企業の管理職……といったイメージが浮かぶ。

 それと何より、ユリと同じ、生まれつきでしかありえない美しい金髪が印象的だった。



「……どうかしたの、学生さん?」



 女性は優しく微笑みながら……見た目とは裏腹に、完璧な日本語で僕に尋ねる。


「えっと、あの……すみません、盗み聞きとかするつもりはなかったんですけど……。

 怒鳴るような声が聞こえたんで、その、どうしたのかなって思って……。

 そしたら、友達の名前も聞こえてきて……それで、驚いちゃって……」


 盗み聞きしていたことの後ろめたさに加えて、何か緊張を感じた僕の答えは、少ししどろもどろになっていた。


「ああ……」


 女性は僕の答えに気を悪くするどころか、むしろ自分が悪かったとばかりに苦笑しながら、どこか気さくに頷いた。


「――ごめんなさいね、驚かせて。

 ケンカと言うほどでも無いのだけど、ちょっと連れと言い争いになってしまって。

 ……それで、そのお友達の名前って言うのは?」


「あ、えっと、あの……もしかしてお姉さん、ユリの知り合いなんですか?」


 気のせいだった、とでも誤魔化した方がよかったのかも知れないけど……僕は正直に答えてしまっていた。

 それは、初対面だから、といった理由とは違う妙な緊張を覚えながらも――なぜだか、この女性ともう少し話をしてみようと思ったからだ。


「ええ、確かにユリとは知り合い。

 でも……あなたのお友達のユリさんは、あなたと同じ学生さんよね?」


「あ、はい、まあ、同級生ですから……」


 僕が頷くと女性は、遠くを見るかのように目を細める。

 あるいはそれは――何かを思案するようでもあった。


「ならやっぱり、残念ながら、私たちが話していたユリとは別人ね」


「そうですか……って、そうですよね、ユリって、そこまで特別珍しい名前でもないんだし。

 ――すいません、変なこと聞いちゃって」


 つい頭を下げる僕に、女性は「気にしないで」と手を振る。

 そして、改めて僕の顔をまじまじと見ると……今度は、「ああ」と手を打った。


「学生さん、あなた確かミシカルワールドで見かけたわ――そう、ギリシャエリアで、お友達と一緒にいるところをね。

 ……化け物のようになってしまった人たちのいるこんな状況で、あんなところから逃げてくるのは大変だったでしょう?」


 女性はあくまで気さくに話を振ってくる。

 ……こんな状況下にあって、見知らぬ人なのに、こうしてまともなコミュニケーションがとれるということは、少なからず喜ばしいことのはずだ。



 なのに――僕の中では、緊張感が増していくばかりだった。



 どこからどう見てもそんなことはないのに……まるで尋問でもされているかのような、落ち着かない気持ちになってくる。

 ただ、同時に、だからといって話を打ち切ろうとは――思えなかった。


「……友達を2人、亡くしました。

 1人は、あの、悪い夢でも見ているような状態に――あ、いえ、化け物のようになってしまって……」


 ……ユリの名前が、そもそもの会話のきっかけだったせいかも知れない。

 僕は思わず、『あの状態』のことを話すのに、ユリが口にした表現を使ってしまっていた。


 だけど女性はそれに首を傾げるどころか、むしろ、なるほど、とでも言うように、深く頷く。



「そう……辛かったでしょうね。

 私も、一緒に逃げていた人たちが、何人もそうなるのを見たわ。

 ――本当に、まるで悪夢のよう。


 でも……だとすれば、その悪い夢を見ているのは、誰なのかしらね?

 おかしくなってしまった人たちなのか、それとも私たちなのか。


 ……あるいは、もしかしたら……この世界そのもの、なのかも」



 どこか皮肉めいた口調で、女性はそんなことを口にした。


 それは、ただの言葉遊びのようなものだったんだろうけど……世界が悪夢を見ている、というのは、言い得て妙だという気もした。


「でも、この2日間――というか48時間の間、少なくともこのホテルの中では、変わってしまう人はいませんでした……よね?

 もう収まった、ということにはならないでしょうか」


「そう思っている人も多いみたいね。

 そして実際、そうなのかも知れない――」


 僕の意見に、そう頷いてから、女性は肩をすくめてみせる。


「ただ、世の中何事も、『波』というのはあるものよ。

 たまたま生じた空白、嵐の前の静けさ――なんて、そんな可能性も充分にあるんじゃないかしら。

 もっとも……」


 そこまで言って、女性は僕の顔を真っ直ぐに見据えてきた。


「可能性、と言うなら……。

 そもそもの感覚の根本的な違いから、人間では悪意と判断することすら出来ない悪意――そんなものが状況に介在しているという可能性だって、あるでしょうけど」


 その、謎かけのような女性の答えを聞いて僕は。

 この人と話をしてみようという思いと、抱いた緊張感の正体に……ふっと気が付いた。



 ……この人は、――。



 それは根拠らしい根拠のない、ほとんど勘のようなものでしかない。

 だけど、僕は確かに……そう感じた。だから、



「あなたは――知っているんですか?」



 正直に、真っ正面からそう尋ねてみた。


 すると女性は、微かな――何かを含んでいることだけは分かっても、その全容まではとても窺い知れない、深遠で微かな笑みを――浮かべてみせる。



「そうね……確かに私は知っているわ。

 ――世界が、薄紙のようなものだと。

 裏と表が交わることはありえないのに、互いが互いに透けて見える――それぐらいのことはね」



「世界が……薄紙……?」


 その物言いに、困惑する僕。

 一方で女性は、話は終わりとばかりに一旦背を向け……だけどすぐさま、何かを思い出したように肩越しに振り返った。

 そして、僕の名前を聞いてくる。


 戸惑うままに、けれども正直に名前を告げると――女性も、エマ・ゴールドフィンチと名乗り返してきた。


「またじっくり話す機会があればいいわね、景司けいじくん。

 でも――」


 エマさんは、そこで言葉を区切り、またあの深くて微かな笑みを浮かべる。

 そして、



のは、私じゃないのよ?」



 囁くような声でそう告げると、今度こそ、廊下の向こうへと歩き去っていった。



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