ユリという名が出たせいで、思わず僕は大きな声を上げてしまって。
それで僕という存在に気付いたのか、階上の男女の会話はぷつりと途切れてしまい……続けて聞こえてきたのは、誰かが歩き去っていく足音。
しまった、と思うと同時に、改めて興味本位で盗み聞きしていたことに罪悪感を覚えた僕は……。
このまま立ち尽くしているよりは――と考えて、そのまま階段を上がり切り、まだ1人は残っているはずの、会話していた人の前に姿を見せた。
思った通りまだそこにいて、僕の方を振り返ったのは――年の頃は30代ぐらいの白人女性だった。
きっちりとしたスーツを着た人で、外資系大企業の管理職……といったイメージが浮かぶ。
それと何より、ユリと同じ、生まれつきでしかありえない美しい金髪が印象的だった。
「……どうかしたの、学生さん?」
女性は優しく微笑みながら……見た目とは裏腹に、完璧な日本語で僕に尋ねる。
「えっと、あの……すみません、盗み聞きとかするつもりはなかったんですけど……。
怒鳴るような声が聞こえたんで、その、どうしたのかなって思って……。
そしたら、友達の名前も聞こえてきて……それで、驚いちゃって……」
盗み聞きしていたことの後ろめたさに加えて、何か緊張を感じた僕の答えは、少ししどろもどろになっていた。
「ああ……」
女性は僕の答えに気を悪くするどころか、むしろ自分が悪かったとばかりに苦笑しながら、どこか気さくに頷いた。
「――ごめんなさいね、驚かせて。
ケンカと言うほどでも無いのだけど、ちょっと連れと言い争いになってしまって。
……それで、そのお友達の名前って言うのは?」
「あ、えっと、あの……もしかしてお姉さん、ユリの知り合いなんですか?」
気のせいだった、とでも誤魔化した方がよかったのかも知れないけど……僕は正直に答えてしまっていた。
それは、初対面だから、といった理由とは違う妙な緊張を覚えながらも――なぜだか、この女性ともう少し話をしてみようと思ったからだ。
「ええ、確かにユリとは知り合い。
でも……あなたのお友達のユリさんは、あなたと同じ学生さんよね?」
「あ、はい、まあ、同級生ですから……」
僕が頷くと女性は、遠くを見るかのように目を細める。
あるいはそれは――何かを思案するようでもあった。
「ならやっぱり、残念ながら、私たちが話していたユリとは別人ね」
「そうですか……って、そうですよね、ユリって、そこまで特別珍しい名前でもないんだし。
――すいません、変なこと聞いちゃって」
つい頭を下げる僕に、女性は「気にしないで」と手を振る。
そして、改めて僕の顔をまじまじと見ると……今度は、「ああ」と手を打った。
「学生さん、あなた確かミシカルワールドで見かけたわ――そう、ギリシャエリアで、お友達と一緒にいるところをね。
……化け物のようになってしまった人たちのいるこんな状況で、あんなところから逃げてくるのは大変だったでしょう?」
女性はあくまで気さくに話を振ってくる。
……こんな状況下にあって、見知らぬ人なのに、こうしてまともなコミュニケーションがとれるということは、少なからず喜ばしいことのはずだ。
なのに――僕の中では、緊張感が増していくばかりだった。
どこからどう見てもそんなことはないのに……まるで尋問でもされているかのような、落ち着かない気持ちになってくる。
ただ、同時に、だからといって話を打ち切ろうとは――思えなかった。
「……友達を2人、亡くしました。
1人は、あの、悪い夢でも見ているような状態に――あ、いえ、化け物のようになってしまって……」
……ユリの名前が、そもそもの会話のきっかけだったせいかも知れない。
僕は思わず、『あの状態』のことを話すのに、ユリが口にした表現を使ってしまっていた。
だけど女性はそれに首を傾げるどころか、むしろ、なるほど、とでも言うように、深く頷く。
「そう……辛かったでしょうね。
私も、一緒に逃げていた人たちが、何人もそうなるのを見たわ。
――本当に、まるで悪夢のよう。
でも……だとすれば、その悪い夢を見ているのは、誰なのかしらね?
おかしくなってしまった人たちなのか、それとも私たちなのか。
……あるいは、もしかしたら……この世界そのもの、なのかも」
どこか皮肉めいた口調で、女性はそんなことを口にした。
それは、ただの言葉遊びのようなものだったんだろうけど……世界が悪夢を見ている、というのは、言い得て妙だという気もした。
「でも、この2日間――というか48時間の間、少なくともこのホテルの中では、変わってしまう人はいませんでした……よね?
もう収まった、ということにはならないでしょうか」
「そう思っている人も多いみたいね。
そして実際、そうなのかも知れない――」
僕の意見に、そう頷いてから、女性は肩をすくめてみせる。
「ただ、世の中何事も、『波』というのはあるものよ。
たまたま生じた空白、嵐の前の静けさ――なんて、そんな可能性も充分にあるんじゃないかしら。
もっとも……」
そこまで言って、女性は僕の顔を真っ直ぐに見据えてきた。
「可能性、と言うなら……。
そもそもの感覚の根本的な違いから、人間では悪意と判断することすら出来ない悪意――そんなものが状況に介在しているという可能性だって、あるでしょうけど」
その、謎かけのような女性の答えを聞いて僕は。
この人と話をしてみようという思いと、抱いた緊張感の正体に……ふっと気が付いた。
……この人は、
それは根拠らしい根拠のない、ほとんど勘のようなものでしかない。
だけど、僕は確かに……そう感じた。だから、
「あなたは――知っているんですか?」
正直に、真っ正面からそう尋ねてみた。
すると女性は、微かな――何かを含んでいることだけは分かっても、その全容まではとても窺い知れない、深遠で微かな笑みを――浮かべてみせる。
「そうね……確かに私は知っているわ。
――世界が、薄紙のようなものだと。
裏と表が交わることはありえないのに、互いが互いに透けて見える――それぐらいのことはね」
「世界が……薄紙……?」
その物言いに、困惑する僕。
一方で女性は、話は終わりとばかりに一旦背を向け……だけどすぐさま、何かを思い出したように肩越しに振り返った。
そして、僕の名前を聞いてくる。
戸惑うままに、けれども正直に名前を告げると――女性も、エマ・ゴールドフィンチと名乗り返してきた。
「またじっくり話す機会があればいいわね、
でも――」
エマさんは、そこで言葉を区切り、またあの深くて微かな笑みを浮かべる。
そして、
「
囁くような声でそう告げると、今度こそ、廊下の向こうへと歩き去っていった。