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10.来た


 ――立ち去るエマさんの背中が、遠くなっていく。



 僕はそれを、ただ、見送ることしか出来なかった。

 頭の中では、彼女が残していった言葉がぐるぐると回っていた。


 それらの言葉に、記憶の中の何かが引っかかって形を成しそうな気もすれば……そうした感覚そのものが誤りだ、という気もする。


 虚と実の見分けがまるでつかなくて、ただ思考の道筋だけがいくつも示されるのは、先のまったく見えない暗闇よりも、むしろ遙かに惑いの色が濃いのかも知れない。


 けれど……進む道が分からなければ、立ち止まるという選択もあって――。


 エマさんの言葉、そして彼女自身について、何かと考えずにはいられないけど……僕は手探りで無闇に考えを広げるのは止めて、取り敢えず当初の目的に立ち返ることにした。

 ――そう、泰輔たいすけたちの様子を見に行ってみる、という目的に。


 あらかじめ聞いていた部屋番号を思い返しながら、僕はエマさんが去っていった方とは逆側へと廊下を歩き出す。

 部屋番号の並びからすれば、こちらからの方が近い。


 番号を確かめながらしばらく進んでいた僕は、また……ふと耳に届いた、誰かの話し声に足を止めていた。



 ――今度聞こえてきたのは、子供の声だった。



 耳を澄ませてそのもとを辿ると、すぐ側の部屋からだと分かる。


 部屋のドアは――開いていた。

 廊下から覗き込んで見る限りでも、スリッパも靴も無いのだから、誰も泊まっていない空き部屋なのは間違いない。

 場所柄、家族連れの宿泊客だって少なくないから、その子供たちが、勝手に空き部屋に入り込んで遊んでいるのだろうかと思ったけど……。



「…………?」



 何か……違和感がある。

 そう、何故だろう――この声を、僕は聞いたことがある気がしていた。


 それも、最近耳にしたとかじゃなくて、ずっと前から知っていたような……そんな気が。

 懐かしさすら感じるぐらいに。


 奇妙な感覚に立ち尽くしていると、耳が拾う声は、近いとか遠いとかじゃなくて――言うなればテレビのボリュームを上げているかのように、次第に明瞭になってくる。



「……ピエロはね、こころがよくみえないの。よくわからないの」


 女の子の声がした。


「ピエロだから?」


 そう尋ね返す声は男の子のものだ。


「まっしろだから。のっぺりだから。

 だからいちばんおおきくて、つよいこころだけしかみえないの。わからないの」


 淡々と説く女の子の声。


「だから、みちゃいけないの?」


「みたらだめ。だめだよ。みえないけど、みえるから。

 みたら――みられるから」


「みられたら?」

「みられたら――」


 声に引き寄せられるように、僕は空き部屋に足を踏み入れる。



 ――途端に。

 声も、気配も、霞のように掻き消えた。



 僕らの泊まっている部屋と同じ間取りのその部屋には、僕1人しかいなかった。

 初めからそうだったように。


 でも、僕は……何となく、そうなるような気がしていた。

 だから特別驚くことも、落胆することもなかった。


 ただ――気分が悪かった。

 白く塗り込められた箇所のある歪な記憶が、外から、そして内から、激しく揺さぶられているように感じて――そして。

 漏れ出す記憶の欠片から漂い、鼻の奥にわき起こる臭いに……激しい胸焼けを覚えて。



 それは……今となっては馴染みのある、あの臭い――。

 血と死の臭いに、似ていたから。



「……?」


 部屋を出ようとしてふと足下を見ると、絨毯の上に小さなノートが落ちている。

 小学生ぐらいの子供が使うような、表紙に動物の写真がプリントされたものだった。


 ノートの名前の欄には、もともと書かれていたらしい名前がマジックで黒く塗りつぶされ……その下に大きく『カタツムリ』と汚い字で書き殴られていた。


 何気なく拾い上げて開いたページには、以前美樹子みきこが逃げ込んだアトラクションの入り口の所で、幻のように見た文句が……また、記されていた。



 ――『せかい の うらがわ』



 さらにページを適当にめくると、今度は別の言葉があった。



 ――『みる  みられる』



 さらにめくる。また言葉が目に止まる。



 ――『ゆめ に みられる  な』



 ますます気分が悪くなる気がして、僕はノートを閉じると床に放り出す。


 そして、その瞬間……決定的にここに留まることに嫌気が差して、早足で部屋を出た。



 放り出したノートの背表紙には。

 他と違って、それだけが真っ赤なインクで……



 ――『か ん さ つ ち ゅ う』



 と、大きく書かれていたからだ――。




「……はぁ、はぁ……っ!」


 空き部屋を出た僕は、廊下の壁に手を突き、今にももどしそうになるのを堪えながら……必死に、呼吸を整えた。

 余計なことを考えないようにしながら、ただただ、気分を落ち着けるように努めた。


 そうしてしばらくして、ようやく調子が戻ってきたと実感したとき――。



 ホテル内に、悲鳴とも怒声ともつかない絶叫が響き渡った。


 それも、思わず顔を上げて周囲を見回すその間に、立て続けて、何度も。



 ――来た、と思った。

 まさか、とか、何が、ではなく。


 ……とにかく、このまま女子たちの部屋を見に行くべきか、一旦自分たちの部屋に戻るべきか――そんなことを考えていると。

 廊下の角の向こうから、こちらに駆けてくる複数人の足音が聞こえてきた。


 万が一のときのために、近くの部屋に隠れて様子を見るかどうか悩んだものの……その足音の雰囲気からして、まともな人間に違いないと踏んだ僕は、その場で音の主を待つ。



 果たして……角の向こうから姿を見せたのは。

 泰輔と、芳乃よしの、美樹子、ユリの女子勢だった。



「おおっ?――景司けいじ

 ……なんだお前、どうしてこんなところに?」


祥治しょうじから話を聞いて、泰輔たちの様子を見に行こうとしていたところだったんだ。

 ……で、そっちはどうなったの?」


 泰輔は、怯えきった表情で芳乃に寄り添う美樹子をちらりと顧みたあと、小さく頷く。


「何とか説得には成功したんで、荷物をまとめてもらってたんだけどさ……そしたらあの悲鳴だろ?

 ヤバい感じがしたんでな……もう、すぐにもここを引き払うつもりで、取り敢えず最低限の荷物だけ持たせてきた」


 泰輔の言うように、女子たちは私物を詰め込んでいるらしい、小型のカバンやバッグを手にしていた。


「……祥治は部屋か? なら、俺たちも一度部屋に戻ろう。

 祥治と合流して、荷物を持ったら急いで逃げた方が良さそうだからな」


 僕らは一緒になって、階下の僕らの部屋に向かって駆け出した。

 途中、この2日間は聞くことが無かった類の物音が、色んな方向から聞こえてくる――。


「何なのよ、いったい――!

 収まったのかと思ったら、こんな、いきなり……っ!」


 悪態を吐く芳乃の声は裏返っていた。

 それでも、こうして声に出すことが、再燃した恐怖に対するせめてもの抵抗なんだろう。


「やっぱり、もっと早くに行動しとけばよかったよな……。

 ――って、ん? おい景司、お前それ……」


 走ることでブレザーの裾がめくれ上がったからだろう――僕のベルトに挟まれた拳銃に気付いた泰輔は、僕に真剣な眼差しを向ける。


 ただ、責めようってつもりじゃなかったみたいで。

 僕が簡潔に、祥治と散歩に出た際に手に入れたことを説明すると……眉をひそめて「間違って俺を撃つなよ」と、軽口とともに肩を叩かれた。


 そうして階段を下り、部屋へ向かう間に……何人もの人間とすれ違った。


 しまい込んでいた恐怖に顔を強張らせ、ある人はただ取り乱し、ある人は着の身着のまま逃げ出そうと走り抜ける。

 また中には、あれだけの地震があったのだから、誰も使おうとせず、動くかどうかさえ定かじゃないエレベーターに頼ろうというのか……エレベーターホールに集まる人たちもいた。


 一方で、僕らの部屋に戻ると、ドアはなぜか開きっぱなしになっていて――。



「……祥治!」



 名を呼びながら、中に飛び込むも……そこには、誰の姿もなかった。



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