――立ち去るエマさんの背中が、遠くなっていく。
僕はそれを、ただ、見送ることしか出来なかった。
頭の中では、彼女が残していった言葉がぐるぐると回っていた。
それらの言葉に、記憶の中の何かが引っかかって形を成しそうな気もすれば……そうした感覚そのものが誤りだ、という気もする。
虚と実の見分けがまるでつかなくて、ただ思考の道筋だけがいくつも示されるのは、先のまったく見えない暗闇よりも、むしろ遙かに惑いの色が濃いのかも知れない。
けれど……進む道が分からなければ、立ち止まるという選択もあって――。
エマさんの言葉、そして彼女自身について、何かと考えずにはいられないけど……僕は手探りで無闇に考えを広げるのは止めて、取り敢えず当初の目的に立ち返ることにした。
――そう、
あらかじめ聞いていた部屋番号を思い返しながら、僕はエマさんが去っていった方とは逆側へと廊下を歩き出す。
部屋番号の並びからすれば、こちらからの方が近い。
番号を確かめながらしばらく進んでいた僕は、また……ふと耳に届いた、誰かの話し声に足を止めていた。
――今度聞こえてきたのは、子供の声だった。
耳を澄ませてそのもとを辿ると、すぐ側の部屋からだと分かる。
部屋のドアは――開いていた。
廊下から覗き込んで見る限りでも、スリッパも靴も無いのだから、誰も泊まっていない空き部屋なのは間違いない。
場所柄、家族連れの宿泊客だって少なくないから、その子供たちが、勝手に空き部屋に入り込んで遊んでいるのだろうかと思ったけど……。
「…………?」
何か……違和感がある。
そう、何故だろう――この声を、僕は聞いたことがある気がしていた。
それも、最近耳にしたとかじゃなくて、ずっと前から知っていたような……そんな気が。
懐かしさすら感じるぐらいに。
奇妙な感覚に立ち尽くしていると、耳が拾う声は、近いとか遠いとかじゃなくて――言うなればテレビのボリュームを上げているかのように、次第に明瞭になってくる。
「……ピエロはね、こころがよくみえないの。よくわからないの」
女の子の声がした。
「ピエロだから?」
そう尋ね返す声は男の子のものだ。
「まっしろだから。のっぺりだから。
だからいちばんおおきくて、つよいこころだけしかみえないの。わからないの」
淡々と説く女の子の声。
「だから、みちゃいけないの?」
「みたらだめ。だめだよ。みえないけど、みえるから。
みたら――みられるから」
「みられたら?」
「みられたら――」
声に引き寄せられるように、僕は空き部屋に足を踏み入れる。
――途端に。
声も、気配も、霞のように掻き消えた。
僕らの泊まっている部屋と同じ間取りのその部屋には、僕1人しかいなかった。
初めからそうだったように。
でも、僕は……何となく、そうなるような気がしていた。
だから特別驚くことも、落胆することもなかった。
ただ――気分が悪かった。
白く塗り込められた箇所のある歪な記憶が、外から、そして内から、激しく揺さぶられているように感じて――そして。
漏れ出す記憶の欠片から漂い、鼻の奥にわき起こる臭いに……激しい胸焼けを覚えて。
それは……今となっては馴染みのある、あの臭い――。
血と死の臭いに、似ていたから。
「……?」
部屋を出ようとしてふと足下を見ると、絨毯の上に小さなノートが落ちている。
小学生ぐらいの子供が使うような、表紙に動物の写真がプリントされたものだった。
ノートの名前の欄には、もともと書かれていたらしい名前がマジックで黒く塗りつぶされ……その下に大きく『カタツムリ』と汚い字で書き殴られていた。
何気なく拾い上げて開いたページには、以前
――『せかい の うらがわ』
さらにページを適当にめくると、今度は別の言葉があった。
――『みる みられる』
さらにめくる。また言葉が目に止まる。
――『ゆめ に みられる な』
ますます気分が悪くなる気がして、僕はノートを閉じると床に放り出す。
そして、その瞬間……決定的にここに留まることに嫌気が差して、早足で部屋を出た。
放り出したノートの背表紙には。
他と違って、それだけが真っ赤なインクで……
――『か ん さ つ ち ゅ う』
と、大きく書かれていたからだ――。
「……はぁ、はぁ……っ!」
空き部屋を出た僕は、廊下の壁に手を突き、今にももどしそうになるのを堪えながら……必死に、呼吸を整えた。
余計なことを考えないようにしながら、ただただ、気分を落ち着けるように努めた。
そうしてしばらくして、ようやく調子が戻ってきたと実感したとき――。
ホテル内に、悲鳴とも怒声ともつかない絶叫が響き渡った。
それも、思わず顔を上げて周囲を見回すその間に、立て続けて、何度も。
――来た、と思った。
まさか、とか、何が、ではなく。
……とにかく、このまま女子たちの部屋を見に行くべきか、一旦自分たちの部屋に戻るべきか――そんなことを考えていると。
廊下の角の向こうから、こちらに駆けてくる複数人の足音が聞こえてきた。
万が一のときのために、近くの部屋に隠れて様子を見るかどうか悩んだものの……その足音の雰囲気からして、まともな人間に違いないと踏んだ僕は、その場で音の主を待つ。
果たして……角の向こうから姿を見せたのは。
泰輔と、
「おおっ?――
……なんだお前、どうしてこんなところに?」
「
……で、そっちはどうなったの?」
泰輔は、怯えきった表情で芳乃に寄り添う美樹子をちらりと顧みたあと、小さく頷く。
「何とか説得には成功したんで、荷物をまとめてもらってたんだけどさ……そしたらあの悲鳴だろ?
ヤバい感じがしたんでな……もう、すぐにもここを引き払うつもりで、取り敢えず最低限の荷物だけ持たせてきた」
泰輔の言うように、女子たちは私物を詰め込んでいるらしい、小型のカバンやバッグを手にしていた。
「……祥治は部屋か? なら、俺たちも一度部屋に戻ろう。
祥治と合流して、荷物を持ったら急いで逃げた方が良さそうだからな」
僕らは一緒になって、階下の僕らの部屋に向かって駆け出した。
途中、この2日間は聞くことが無かった類の物音が、色んな方向から聞こえてくる――。
「何なのよ、いったい――!
収まったのかと思ったら、こんな、いきなり……っ!」
悪態を吐く芳乃の声は裏返っていた。
それでも、こうして声に出すことが、再燃した恐怖に対するせめてもの抵抗なんだろう。
「やっぱり、もっと早くに行動しとけばよかったよな……。
――って、ん? おい景司、お前それ……」
走ることでブレザーの裾がめくれ上がったからだろう――僕のベルトに挟まれた拳銃に気付いた泰輔は、僕に真剣な眼差しを向ける。
ただ、責めようってつもりじゃなかったみたいで。
僕が簡潔に、祥治と散歩に出た際に手に入れたことを説明すると……眉をひそめて「間違って俺を撃つなよ」と、軽口とともに肩を叩かれた。
そうして階段を下り、部屋へ向かう間に……何人もの人間とすれ違った。
しまい込んでいた恐怖に顔を強張らせ、ある人はただ取り乱し、ある人は着の身着のまま逃げ出そうと走り抜ける。
また中には、あれだけの地震があったのだから、誰も使おうとせず、動くかどうかさえ定かじゃないエレベーターに頼ろうというのか……エレベーターホールに集まる人たちもいた。
一方で、僕らの部屋に戻ると、ドアはなぜか開きっぱなしになっていて――。
「……祥治!」
名を呼びながら、中に飛び込むも……そこには、誰の姿もなかった。