診察室の方を見た僕は……ぎょっとした。
ドアの小窓越しに映る、どう見たって診察室のものじゃないその光景に――確かに、見覚えがあったから。
白い壁に囲まれた真っ白な部屋。白衣を着た男たち。
そして――彼らに観察される、芋虫のような姿に拘束され、のたうつ子供。
無機質で、冷たく、乾燥した光景……。
見覚え……?
そうだ、でも違う――何だろう、この異様なまでの臨場感は……。
掻きむしりたくなるほどに胸焼けがする……平衡感覚が無くなるほどに目眩がする……なのに、なのに……目が、離せない――。
これは幻だと分かっている、幻覚だと理解しているのに……
「……どうやら、少なくとも言語感覚だけは戻ってきたようじゃないか」
「当初は聞くに耐えませんでしたが。
数値上も、様々な面で沈静化が進んでいます」
どうして――どうして白衣の男たちの声が、そして――
「あ――ア、あ――!
あア! イイいイッ、アア、あ――ッ!!」
そしてあの子供の、どこか人間離れした金切り声が、はっきり聞き取れるんだ……!?
「では、いずれは回復するものだと?」
「それはまだ何とも。
免疫のようなものが存在するのか、境界線の問題なのか、あるいは一種の擬態なのか……とにかくもうしばらく経過を観察しないことには」
「観察――か。
あるいは、こうする我々も観察されているのかも知れないな――
「イイあアッ、あア、あアいあ――ッ!!!」
――僕を呪縛から解き放つきっかけになったのは、子供の金切り声だった。
視線を、半ば力ずくで診察室の小窓から引き剥がし――異様な胸焼けによる吐き気を必死に抑え込みながら、待合室の中に転がり込む。
地震と略奪で物が散乱し、荒れ放題になっている小さな待合室……。
その光景が、いかに退廃的なものだろうと――これまで通りであることに、僕は安堵すら覚えていた。
長椅子の端に倒れるように座り込むと、手製の槍を床に放り出し、何度も何度も深呼吸して、ただただ動悸を静めようと躍起になる。
そうしているうちに……気付けば、玄関のガラス戸を押し開いて、
「あ……ああ、お帰り、泰輔……」
「おう、起きたのか。
……って、
挨拶もそこそこに、泰輔は怪訝そうに僕の顔を覗き込む。
「……そう――かな?
うん、大丈夫、何でもないよ……」
余計な心配はかけまいと、無理矢理にでも笑顔を作る。
すると、空元気の効能なのか、それともやはり何もかも幻だったからか――あれほど酷かった胸焼けが、嘘のように収まっていった。
「そうだ、泰輔、それで外の様子は……どうだった?」
「ああ……そうだな。
取り敢えず、いつものようにと言うか……この島の人口が減る、そういう場面には出くわしたよ」
1人で外にいる間、ずっと気を張っていたのだろう――。
泰輔は、ようやく人心地ついたという風に大きく息を吐き出しながら……僕とは違う列の長椅子に、どっかと腰を下ろした。
「……そう」
今となっては悲嘆に暮れるほどのことではないけれど――それでも、決して嬉しいものとは言えないその報せに、僕はただ頷くしかない。
「ただ、皮肉だったな……。
――ほら、2、3日ぐらい前にアーケードの方でさ、人助けしてる医者を見かけたこと、覚えてるか?
こんな状況になったばっかりのときは、同じような行動してる奴はもうちょっといたけど、最近はほとんどいなかったから、随分久しぶりに見たような気がするな――って話した……」
「ああ……うん、いたね、そう言えば。
生き残った人間同士、協力し合ってこの過酷な事態を乗り切ろう――って、呼びかけてたっけ……」
僕の脳裏に浮かんだのは……2つのグループの諍いに割って入り、身を挺して仲介をしていた、白衣の男性の姿だった。
その志と行動は、人間として素晴らしい、立派なものだろう。
僕だって、穏やかな日常の中にあったなら感銘を受けて、素直に共感したかも知れない。
だけど――この異常な状況にどっぷり浸かった今となっては、僕にしろ泰輔にしろ、そういったことをどことなく愚かだとさえ感じる、冷ややかな目線が出来上がってしまっていた。
「それで、皮肉、って?」
「ああ。さっき殺されたのが、その医者だったんだよ。
それもよりによって、そいつが保護してたらしい、女子供を中心にした一団に袋叩きにされてな。
……何か、『あの状態』になったと疑われるような言動をしちまったのか、それともただのパニックの延長なのか……そこまでは分からねえけどさ」
「そう……」
確かに、皮肉な話だと思う。
ただ、可哀想だとか、酷い話だとか……そういった感情は、まったく無いわけではないけれど、ごく小さなものしかなかった。
――これも、慣れ、なのかも知れない。
僕らを取り巻く今の世界には、とにかく死が多すぎる。
未だ腐敗の兆候すら見せず、瑞々しいとさえ言える骸が、街中ありとあらゆるところに転がっているのだから。
生きている人間というより、生そのものが――この世界の中にあってはむしろ異質なんじゃないかと、そう錯覚するほどに。
だから、自分たちに直接関係のない『死』というのは、当たり前に周囲に存在する、ありふれたものの1つでしかなくて……。
今となっては、特別な感情を強く呼び起こすほどのものじゃなくなっていたんだ。
その奇妙な冷静さは、感覚の麻痺なんて表現はとっくに通り越した――たとえて言えば達観とか、そういった領域に踏み込んでいる証という気もする。
……ということは、もしかしたら、あるいは――
僕の頭の中には、ふっと1つの考えが浮かんだ。
それを、ただそのまま口に出す。
「人間じゃ無くなってきているのは、僕らなのかな……」
「……さあ……どうだろうな」
あくまで独り言のようなものだったのだけど……そこから泰輔は、僕の考えていたことを察したらしい。
一言そう言って、立ち上がった。
「俺は、むしろ――今の俺たちの方が、実はよっぽど人間らしいんじゃないかって……そんな風にも思うけどな」